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飲み忘れた薬
そういえば昨日は薬を飲んだろうか?
リンコからの返信を待ち続けた山中は、昨晩、結局殆ど眠ることが出来なかった。そのせいか昨日薬を飲んだかどうか、いくら思い出そうとしても思い出せないでいた。
まあいいか。今日は二錠飲んでやる。
山中に処方されているジアゼパムという抗不安薬は強い精神病薬だ。だが、どれくらい強いのか山中は気にしたことがない。薬を貰った時に容量を守って規則正しく飲むようにと言われた筈だが、そんな事はすっかり忘れていた。
薬を飲んで弁当屋のハンバーグ弁当を食べると具合が悪くなってきた。一眠りしようと敷きっぱなしの薄い布団に横になると眩暈もしてきた。山中は嫌な予感を抱き始める。こういう時は宇宙人の声が荒々しく攻撃的になるからだ。
(ッザーーッザーーッ!:お前は無能で役立たずの屑だ!)
――嗚呼、やめてくれ。そんな事は聞きたくない。そんなことよりリンコさんの話をしようぜ。今何をしているのかな。この壁の向こう側で、彼女が何をしているのか一緒に話そう。
リンコが隣に引っ越して来てから、山中は音楽を聴くのを止めた。代わりに彼女の生活音に耳を傾けている。台所で野菜を切る音、彼女が見る動画の音、風呂に湯を張る音。山中にとってはどの音も惚れ惚れするほどの快音だ。トイレの音まで愛おしく思っていた。
(ッザーーッザーーッ!:お前は無能で役立たずの屑だ!)
やめろやめろ。俺は優しい隣人なんだ。彼女の役に立つ人間になるんだ。こんな俺が屑なわけないじゃないか。 そうか、わかったぞ。これは薬を二錠飲んだせいだな。こんな目に遭うのは懲り懲りだ。明日は薬を飲むのを止めてやる。
その日、山中は薬の効果が消えるまで、一日中宇宙人からの罵声を浴びせられ続けた。
翌日――
昨晩は一睡もできなかった。宇宙人の声が聞こえなくなった後も植え付けられた罵声の余韻が消えず、後ろ向きな事を考え続けてしまった。過去に起こしてしまった失態と、リンコに嫌われたかもしれないという不安。これらが山中の思考を縛りつけていた。
充電器に繋げたままのスマホを持ち上げては、何度もアプリを開いてメッセージが来ていないか確認したが、虚しい黒い画面に映る、虚しい自分の顔を見つめると、更に虚しくなるだけだった。
山中は待ちきれずに一度夜中にこんなメッセージを送ってしまった。
『どんな些細な事でも構わないから、いつでも頼ってきていいからね』
10時になると腹は空いていないが適当に朝飯を食べた。このまま生活スタイルが崩れると精神状態が悪化してしまいそうだからだ。元々幻聴が聞こえるようになったのも不眠が原因だった。今から半年前、職場で社長から説教をされると、山中は悲鳴を上げて会社から逃げ出した。その日から丸々五日間一睡もできず、終いには手足が思うように動かなくなり病院へ運ばれた。
確かあの時、救急車を呼んでくれたのは大家の婆アだったっけ。
あれから仕事は休職中ということになっているが、もうあの職場に戻る事はないだろう。会社側だってこんな社員をずっと放置しているわけがない。そのうち解雇通知が送られてきて、あっさり切られる運命だ。いや、もう既に終わった話だったかもしれない。
(ぽぽぴぴぴ:メッセージを受信した)
リンコさんからのメッセージが来たのか!?
慌ててスマホへ手を伸ばしアプリを開くと、待ちに待ったメッセージが届いていた。
『敏夫さん、返信が遅れてごめんなさい』
遂にリンコさんが下の名前で呼んでくれた!
山中はこれ以上の幸福はないとばかりに喜ぶ。メッセージがゆらゆらと消えていくと、またすぐに次のメッセージを受信した。
『それと突然のお願いで申し訳ないのですが、今日は夕立が酷くなると天気予報で聞いたのに傘を忘れてしまいました』
『もう下赤塚駅に着いてしまって今から戻ると電車に間に合いそうにありません。敏夫さんさえ良ければ、一階の共用部の傘立てに入っている透明の傘を届けていただけませんか?』
読み終えるとまた文字が揺れて消えていった。これはリンコからの初めての頼み事だ。断る理由などない。今の山中にあるのは、たっぷりと有り余る時間だけなのだから。
『僕なら問題ありません。すぐに下赤塚駅に傘を持って行きます』
そう送ると急いで顔を洗い、歯を磨き、少しいい服に着替え、透明の傘を持って第二赤塚荘を飛び出した。
しかし、走って駅まで行ったのだが、駅にリンコの姿はなかった。料金を払ってホームの中まで行き隅から隅まで探したが、若い女性の姿すら見当たらない。
山中はリンコが乗る予定の電車に間に合わなかったのだ。
なんて間抜けなんだ! 顔なんて洗わないで、歯磨きなんてしないで、服なんか着替えないで、さっさと行けばよかったんだ!
スマホを見るがメッセージは来ていない。
宇宙人の言う事はやっぱり正しいのか。俺の事を一番理解しているのは宇宙人だしな。俺は無能で役立たずの屑なのかもしれない。
傘を持ったまま肩を落として帰宅した。家に着いてから少し落ち着いた山中は、リンコにメッセージを送ることにした。二人だけの秘密のメッセージ。30秒で消えてサーバーログにも残らない。無常にも儚いが、それが今の二人を繋ぐ大事なツールだ。
『傘を持って駅に行ったけど、電車の発車に間に合わなかったみたいだ。役立たずでごめん』
送信したメッセージは、何度か読み返しているうちに消えた。
日が暮れるとその日は本当に夕立が酷く、山中はこのまま喧しい蝉が、全部流れて消えてしまえばいいと思った。後で恋しくなっても、読み返すことの出来ない山中とリンコのやり取りのように。
翌日――
その日はリンコからのメッセージはなかった。怒ってしまったのかもしれない。
朝からずっとスマホを見ていた山中は、薬を飲んだか飲んでないか記憶が曖昧だった。睡眠も浅く昼も夜も寝転がってはいるものの、寝ているのか起きているのか自分でも分からない。ただ時の流れに身を任せるように、天井とスマホを交互に見つめていた。
翌日――
よく考えてみると昨日は薬を飲まなかった気がしてきた。ならばもう二日も飲んでないことになる。頭も全く冴えない。熱い風呂から出た時に、のぼせて眩暈がするような感覚だ。流石にこれはいけないと思い、薬を手に取ってプラスチック部分を押すと、間違って二粒出してしまった。掌の上に置いた二つの丸い小さな錠剤を見つめる。
一つは仕舞うか。そう思い丁寧にアルミを開き戻そうとしたものの、間違ってまだ開けていないアルミを剥がしてしまい、もう一錠の薬が畳の上にこぼれ落ちた。
(ぺぺピンポーフ:三錠とも飲んだらいいさ。まだ行ったことのない幸福な世界へ行けるぜ)
いつもより静かな宇宙人の声が山中の耳の中で囁いた。
そうか、三錠飲んだことは一度もないな。俺のことを一番理解している宇宙人の言うことだ。医者なんかよりずっと正しいことを俺に教えてくれる。それなら三錠飲んでみようか。
そうして山中は三粒の錠剤を麦茶で胃に流し込んだ。
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