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蝉の鳴く日、女と出会う
東京都下赤塚にある単身者用の古ぼけた賃貸住宅『第二赤塚荘』に住む中年男、山中 敏夫の話。
嗚呼、煩い煩い。また蝉が鳴いている。
ある夏の日、四十代後半の山中という男は窓の外から聞こえる蝉の音に嫌気が差し、それをすっかり掻き消すように狭い自宅でパンクロックを大音量で聴いていた。
この男、見た目は長身で木の枝のように痩せている。生まれつきの乾燥肌で額には深い皺が波打つ。風呂に入るのは三日に一度。風呂上がりの日を除き、細い黒髪はじとっと頭皮に張り付くように、ただだらしなく垂れている。最後に床屋へ行ったのは四ヶ月前。今は輪ゴムで結えそうなほど伸びていた。
首筋にかいた汗で髪の毛が首に纏わり付くのをうちわで仰ぎながら払っていると、音楽の切れ目から微かにドンドンと玄関の扉を叩く音が聞こえた。
また大家の婆さんか。どうせ静かにしろと説教しに来たんだろう。こっちは毎月きちっと家賃を払ってやってんのに。
よっこいしょと畳の上に敷かれた薄い座布団から腰を上げ、音楽をかけっぱなしのまま玄関へ向かう。
絶対に音量を下げるものか。何を言ってるのか聞こえませんって惚けてさっさと帰ってもらおう。どうせ向こうだって俺を追い出せない筈さ。こんなぼろ屋に住みたい奴なんてどこをどう探したって見つからないだろうからな。此処の隣の部屋だって、年中空き部屋なんだ。
そんなことを考えながら玄関のドアを蹴飛ばすように思いっきり開けてやると、そこにいたのは水色のキャミソールに薄い白のカーディガンを羽織った大学生くらいの女の子だった。
「きゃ!」
思いっきり開けたドアに驚いた女の子が小さな悲鳴を上げた。
「あっすみません。大丈夫でしたか?」
大家の婆さんならドアがぶつかった所で山中は全く気にしない。だが目の前にいるのは華奢な見た目の娘。シミの一つもない真っさらな肌に傷なんて負わせてしまったら大変である。咄嗟に山中は、ドアに当たったかもしれない彼女の左手を取り、大袈裟なくらいに心配しながら怪我がないか入念にチェックした。指輪のはめられてない細い左手からは香水の甘い香りがふわりと飛んできた。
「大丈夫です。ぶつかってませんので」
その声を聞きほっと胸を撫で下ろす。
そして「あっこれは失礼」と言い、掴んでいた手を離した。
「本当にすみませんでした。お怪我が無くて良かった。で、どのようなご用件でしょうか?」
パンクロックの音楽がやけに煩く鳴り響く。山中は音量を下げなかった自分を呪った。相手の言葉が聞き取りづらいし、こっちも声を張って話さなければならない。
「お隣に引っ越してきたのでご挨拶に伺いました。これはつまらないものですが、よければ受け取ってください」
普段の声量を頑張って倍にしたような声でそう言うと、女は右手に持っていた紙袋を差し出した。
隣の部屋に引っ越してきただと? こんなボロい所に若い女性がよく引っ越してきたものだ。それになんて素敵な子だろう。今時引っ越しの挨拶なんてしなくても良いのに、若いのに律儀な子だ。このボロ屋敷も捨てたもんじゃないな。これからはこの子に迷惑がかからないように音楽は静かに聴くことにするか。隣の部屋ならきっと音がダダ漏れだろうからな。それにこの子がどんな生活音を立てるのか気になるな。音楽は聴くのか、テレビは見るのか、あぁそうだ風呂の音も聞こえるかもしれない。もういっその事パンクロックを聴くのをやめてもいいぞ。
「わざわざご丁寧にありがとうございます。僕は山中と言います。あなたのお名前を教えて頂けますか?」
「あづまリンコです」
「リンコさん。あぁ、そうだ。もし何かわからないことがあったらいつでも聞いてくださいね」
驚かせてしまって申し訳なく思い、償いの意思表示のために山中はポケットの中にあったレシートの裏に自分の電話番号を殴り書きし、口元をゆるめながらそれをリンコに渡した。
「これが僕の番号です」
自分は悪い男ではない。直接会わなくてもあなたのサポートがしたいのだと示すために。
それがこの二人の奇妙な関係の始まりだった。
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