37人が本棚に入れています
本棚に追加
1.果樹園での出会い
それは、基国の都・東蔡に近い、小さな郷でのできごと――。
沐陽がまもなく八歳になろうという頃のこと――。
その朝、沐陽は、悔しさで奥歯を噛みしめながら、果樹園の中を歩いていた。
夕べの風によって落ちた食べ頃の桃が、いたるところに転がっていた。
手で一つ一つ丁寧に拾い、背中のかごへ収めていく。
傷ついた桃は、村の市場に出して安値で売るしかない。
今年は、季節外れの強く冷たい風が何度も吹き、果樹たちを痛めつけていた。
桜桃や杏も、いつもの年ほどは実らず、畑の作物も不作が続いていた。
富裕な商家や大地主などと高値で取り引きできる桃は、どれだけ採れるのだろう――。桃の木を見上げながら、沐陽は大きな溜息をついた。
そのときだった、沐陽の視界の端を小さな人影が横切った。
桃泥棒!? 風のせいで収穫が減っているというのに、残った桃まで盗まれてはたまらない。沐陽は、人影を追って走り出した。
背中の籠の重みで足元をふらつかせながら、果樹園の中心部にたどり着くと、案の定、そこには見知らぬ人物が立っていた。
淡い桃色の上等な服を着た、沐陽と同じくらいの年頃の女の子だった。
子どもだからといって、油断してはいけない。大人に命じられ、数人の子どもが果実を盗みに来たこともあった。沐陽は、少し離れたところから、木に隠れ女の子の様子を観察することにした。
女の子は、小さな鼻を空に向けて目を閉じ、一心に香りをかいでいた。
そして、うっとりとした顔で言った。
「ああっ! なんて甘い香り! 桃の実の中に閉じ込められたみたい!」
まるで桃そのもののような丸い頬を緩ませ、にっこりと微笑みながら、女の子は桃の香りに酔いしれていた。あまりにも愛らしいその姿に見とれ、沐陽は声をかけることも忘れていた。
やがて、数名の大人たちが、「若渓さま―っ!」と叫びながら、こちらに近づいて来た。彼らは、女の子の従者と思われる格好をしていた。
面倒事に巻き込まれるのはいやなので、沐陽は、刈った下草を積み上げた山の陰に隠れた。大人たちは、女の子に気づくといっせいに彼女に駆け寄った。
「若渓さま! 勝手に行ってはなりません!」
「何が起こるかわからぬ場所です! われらの注意を聞いてくださらないと!」
「もう、十分に桃畑をご覧になりましたでしょう! 早く馬車にお戻りください! 急いで神殿に向かわねばなりません!」
大人たちは、息を切らしながら、もうどこへも行かせないぞというように女の子を取り囲んだ。女の子は、そんな大人たちにちょっと怒った顔で言い放った。
「嫌よ! 香りだけじゃ満足できないわ! わたし、桃を食べたい!」
両手を握りしめその場に座り込んだ女の子は、上目遣いに大人たちを見回しながら、こっそり舌なめずりをしていた。それがまた、沐陽には、妙に可愛らしく思えた。
最初のコメントを投稿しよう!