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4.ハシゴ酒
体力も尽きて気だるいばかりの身体を、慧兎は隣で横になる菅野に向かって寝返りを打った。
慧兎の眠気はもうピークを迎えそうだ。それでもまだその横で起きている菅野へと、慧兎はふと思い出して尋ねた。
「蒼太さん、今日はずいぶんと遅かったですね」
今日、菅野が帰宅した時間は午前零時を回っていたはずだった。
菅野はちらりと慧兎を見て、少し話すのを躊躇する。けれどやがて口を開いた。
「奴を…水野監査役を飲みに誘ったんだ」
菅野の今日の飲み相手がまさかの水野だったと彼の口から飛び出して、慧兎は思わず目を見開いてしまう。
「え…っ! 水野…監査役と、ですか?!」
驚きのあまり、一瞬眠気も忘れて慧兎は彼の腕へとしがみついていた。
「あぁ。大して美味い酒でもなかったがな」
(そんな人間と飲む酒が、美味しいわけなどないだろうに…)
「なんでまた…」
慧兎は思わず問い返した。
菅野の専務という立場と水野監査役ならば、仕事上の関係性があってもおかしくはない。けれど、昼の一件があった直後なだけに慧兎はこれがただの仕事上の話だけではないだろうと感じてしまう。
「あいつの腹の内を、探ってやろうと思ってな」
そう言いながら、菅野は慧兎と向き合うようにして体勢を変えた。
菅野がわざわざ水野を誘って不味い酒を飲みに出かけていたのは、菅野なりの情報収集のようだった。
だから心配するなと、菅野は慧兎の頭を撫でてやる。すると慧兎はどこかホッとした顔でようやく瞼を閉ざした。
実際のところ、水野とは食事だけでは終わりはしなかった。
会社の経費で次から次へと無駄にハシゴ酒をし、行き着いた先で水野は女遊びを始めた。さすがに付き合いきれなくなって、水野をその場へと放置して菅野は帰ってきたのだった。
菅野には、今回のことで水野について判明したことがあった。
水野は出張先や異動先で、地方に恋人を複数人抱えている様子だった。それがあたかも自身を形造るステイタスだとでも言うかのようにして、それは誇らしげに菅野へと語って聞かせたのだった。
高学歴なうえ大手銀行の重役出だというのに、その水野の考えは菅野にはあまり理解できないものといえた。確かに菅野が知っている同じような奴らの中にも、愛人を囲っているだのと自慢話のように話をする輩はいたものだが、その男の女遊びに対する金遣いの粗さは半端ない様子がみてとれる。しかもその遊びは、男女すらをも問わなくて尚更タチが悪かった。
菅野は危機感を感じざるをえなくなる。
だから菅野は、確信を得るためにあえて慧兎のことを知らぬ顔で話題にあげたのだった。
『今日の昼にご一緒してたあの子、けっこう可愛かったですねぇ』
そんな話を振れば、水野は菅野がわかる奴だとでも思ったのか、気をよくして更にその口を滑らせていった。
『そう、キスマーク…!』
『え?』
水野は酒で顔を赤くしながらも、自身の首元へと親指を立てて示したのだった。
『ココにな、キスマークがあったんだよ。あの男、随分と積極的な彼女でも居るのか。それともあの可愛い顔からして男でも…』
そう語る水野は、いやらしくも口元を舐めとる。
『…ははぁ。さては監査役、津田さん狙いですかね』
菅野は酒の入ったグラスを片手に、横目にその男の様子を見やった。その冷たいまでに冷め切った視線に、水野は全く気がついてはいない。
水野は、あからさまな様子で舌打ちをしていた。
『思いのほか、ガードが硬くてなぁ…』
水野の本音が溢れ出る。
『…それって、大丈夫です?』
と、菅野が言葉を挟んだ。
『何がだ?』
菅野のその心配げにも聞こえる質問に、水野は酒で勢いを増した声のまま、隣に座る菅野へと問い返す。
『キスマーク、残してるんでしょう? それって言わば、縄張り的なもんじゃありません?』
『フン。そんな輩、気にしていては愛人など囲えんよ。君も』
まるで愛人の有無で人間の器の大きさでも測るかのような物言いだった。
けれどそんな馬鹿げた文句に乗るでもなく、菅野は淡々と話を続ける。
『…水野サンならどうします? 自分のモノに手を出されたら…』
そう語る菅野の声音はそれほど低くはない。けれど、その眼差しだけはまるで獲物を捉えたかのように潜められていた。
すると水野は、『どうだろうな…今は三人囲ってるから…』などとブツブツと呟きながら手元のグラスを口元へと傾けてゆく。
菅野は、相手の様子を窺いながらもその先を続けた。
『私だったなら、手を出したその男の未来なんて、ブッ潰しちゃいますけどね』
危うげな発言をする菅野に、水野は手にしたグラスをピタリと止めた。
『…怖いなぁ、菅野君は』
ハハハと半笑いして、水野は残りの水割りを一気に煽った。そこでようやくのこと、菅野の視線に気がついたようだ。
『怖いですか? そうですね…私なら、絶対に逃しはしませんから』
『…………』
菅野の執念深さを垣間見た水野は、一瞬なぜかヒヤリとする。絶対に敵には回してはならない相手だと、本能が察知していた。
『君の女にだけは、手は出せんな…』
そこだけは酔ってなどいなさそうにして、水野はハッキリと呟いたのだった。
(本当に手を出すというならば…どうしてやろうか)
慧兎に残しておいたキスマークの存在を知ったその男に、菅野は内心、腑が煮えくり返っていた。摂取したアルコールがそれを煽り立てるかのようにして、額に青筋を浮立たせる。酒の入ったグラスを握りしめて、平常心を保つのがやっとの思いだった。
そんな飲み屋での一件を思い出しながら、菅野はようやく寝ついた様子の慧兎の前髪を指で梳きあげた。赤みを残した可愛げな目元が見てとれる。
そんな彼へと菅野は触れるだけのキスをすると、菅野もまた彼の隣で眠りに就いたのだった。
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