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1.新たな監査役
平穏で単調な日々というのは、平和でありながらも時に地獄のようにも感じられたりする。
しかし、いざそのつまらない繰り返しとも思えた日々があっけなくも壊されてしまえば、それさえもが懐かしく、かけがえのない時だと思えるものだ。
忙しいながらも、穏やかだった時がまるで嘘のようにして、慧兎(けいと)の在籍する職場の空気はある男の登場によって脆くも崩壊してしまっていた。
「もーう、あの新任の監査役! ほんっと、サイテー!!」
女性社員の愚痴がピークを迎えていた。
いつもは周囲の噂話でもちきりの彼女たちも、今に至っては状況が以前とは違うようだ。
三十路を過ぎたその女性は、美人ながらも未だ結婚の気配はない。そんな彼女へと、新しく就任した当の監査役は、今の時代では信じられないようなセクハラ発言をしてのけたのだった。
「今時ないわよねぇ。『さっさと婚活でもして、子供でも産んだらどうだー』…って、訴えられたら終わりだって、わかんないのかしら?」
ボイスレコーダーでも仕掛けてやろうかなどと、もう一人の女性社員も苛立たしげに同感する。女性陣の怒りは頂点に達し、不穏な空気が立ち込めていた。ここ最近の経理部ではしばらくなかった空気感である。
慧兎は、その噂の渦中の監査役こと、水野透吾(みずの・とうご)の存在によって変わってしまった職場の重い空気に、ただ溜め息が出るばかりだった。
そんな、朝から殺伐とした雰囲気の中、経理部の部長である飯嶋が出社してきた。
「飯嶋部長〜! 聞いてくださいよ〜!」
今度はピーピーと、まるで親鳥にせっつく雛鳥のごとく女性陣たちは飯嶋を取り囲んでいく。
「わ、な…なに?! どうしたの?」
朝から女性陣に取り囲まれた飯嶋は、周囲の他の部下へとどうしたものかと視線を送りながらも自分のデスクへと辿り着いた。皆が必死にその親鳥へと事情を説明している。
「あー、ハイハイ。あの監査役ね…。わかったから皆んな、落ち着いて」
ひととおり彼女たちから話を聞いた飯嶋のその声の後に、続くようにして始業ベルが鳴った。女性陣も渋々ながら、自分たちの席へと戻って行く。
慧兎はやっとひとりになった飯嶋の元へと近づくと、朝の挨拶を交わした。
「おはようございます。飯嶋部長」
「ああ、オハヨ…慧兎君」
朝から疲れた声を返す飯嶋へと、慧兎もまた、
「困りましたね…」
と、何の解決にもならない言葉をかけるしかなかった。
「うーん…。確かにあの人、相当な曲者らしいんだよね」
あの人と名前を伏せたのは、新しい監査役である水野のことだ。女性蔑視のセクハラ発言からパワハラまで、あらゆる話が既に飯嶋の耳には届いていた。
その男の担当する監査役という職務は会社の全般に関わるものだが、特にここ経理部とは関係性が深いと言えた。正直なところ、あまり敵対したくはない相手でもある。
けれど、相手はそこに付け込んでいるのだ。文句が言えないからこそ、ここ経理部で好き放題にしてしまっていた。
だからといって、経理部としても放置などできないが、どうすることもできないのが実情といえた。
「これはもう、天下の菅野様にご報告するしかないな…」
飯嶋は自分と同期の菅野(すがの)のことを、時に皮肉めいて崇め揶揄う節がある。それに嫌味が一切ないことは慧兎自身もよく知っていることだった。
飯嶋は思い立ったが吉日とばかりに席を立ち上がると、「ちょっと行ってくる」と言い残してそのフロアを出て行ってしまった。
行き先は菅野のいる専務室だろう。
その背中を見送った慧兎は、またひとつ溜め息を溢した。
飯嶋が真っ先に菅野へと報告に行ったのには、理由がもう一つあった。自分の出張が間近に迫っているからだった。
今回の出張は、遠方の北海道支社への顔合わせだ。部長である飯嶋は、ここ経理部をしばらく留守にすることになる。留守中の部長の代わりは慧兎が担当することになっていた。厄介ごとはできる限り片付けておきたいというものだ。
(まぁ、そう簡単に片付く話でもないけど…)
手元の書類を整理しながら、慧兎は自分の心までもが重くなっていくのを感じていた。
この会社でなくとも、セクハラやパワハラといったこういったトラブルは昭和生まれの上司には未だよくある風習だ。しかも相手は、主要取引銀行から就任した監査役である。
(飯嶋部長にとっては、難しい相手だろうな…)
この時はまだ、慧兎も“経理部”にとっての厄介者としか感じていなかったが、その男は主の居ぬ間にと、また厄介な問題を慧兎へと更に持ちかけることになるのだった。
菅野のマンションに帰れば、その日は監査役の水野の話題が持ち上がるだろうと予想ができた。
疲れて帰宅しただろう菅野に、先に風呂へと入る様に慧兎は勧める。その間に慧兎は夕食をすぐに食べられるようにしておいた。
風呂から上がった菅野は、帰ってきた時よりか穏やかな表情へと変わっていた。
「今日の晩飯は、八宝菜か。うまそうだな」
「はい。野菜を沢山取り入れたくて」
ワカメスープを添えて、慧兎は茶碗へと白米をよそった。
普段なら何気ない日常の会話が続くところだが、案の定、話題は新任監査役の水野の話へと移っていった。
菅野は、その水野がこの会社の監査役になった事の経緯を慧兎へと説明した。
「取引先の先方のトップが、あのセクハラオヤジの扱いに困ってウチの社長に泣きついたって形らしい」
セクハラオヤジ…菅野は水野のことをそう表現した。続けて菅野は、社長にその話を受けないよう仄めかしていたが、やはり社長もまた断りきれなかったのだと話した。
「あの使えない社長め…」
最後は既に、自社の社長にまで暴言を吐いていた。
(社長に『使えない』って…)
慧兎は苦笑いを返しながら、食後にと淹れたばかりのコーヒーをカップへと注いで菅野へと手渡した。途端に菅野の表情がやんわりと和む。
「飯嶋…あいつも、今週半ばから出張で留守にするから、お前のことが気がかりだとも話してたぞ」
やはり飯嶋は、慧兎の心配もしていたようだった。
「まぁ…僕のほうは、監査役から何か問い合わせがあれば対応するまでのことですから、大丈夫ですよ」
実のところ不安も多々あったが、慧兎はこれ以上は菅野をこんな時間外まで不快な気分にはさせたくなかった。
「いや。お前も十分に気をつけておくように。とくに、奴とは二人きりになったりはするなよ。どんなセクハラをされるか…」
呼び出されても絶対にひとりでは行くなと、慧兎に念まで押す始末だ。
(セクハラって…。パワハラならまだしも…)
「大丈夫ですってば…。僕だって、これでも男ですよ」
菅野は慧兎のことを、どこかひ弱な小動物とでも思っているような節が窺える。菅野にしてみれば少々頼りないようにも見えてしまうのだろうか。
慧兎は弱ったように眉根を寄せつつも再度大丈夫だと伝えた。
それに、家に帰って菅野とこうして顔を合わせれば、何があっても安心できる気がしていた。
「…何かあれば、すぐ俺に連絡しろよ」
菅野の言うとおり、そんな連絡をしてしまえば、この男はすぐさま経理部のフロアに現れるに違いなかった。
けれど、そんなことがあれば菅野とのこの関係もいずれ周囲へと暴かれてしまう。
「はい。わかりましたよ」
口ではそう返しながらも、慧兎は流石に今回ばかりは頼れないだろうと心に据え置いたのだった。
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