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2.不在期間
今週の半ばから予定通り、経理部長の飯嶋は北海道支社へと出張に出掛けて行った。
慧兎は彼が不在の間、飯嶋のデスクを借りて託された書類の山を順次整理をしていた。急を要する重要な決裁だけは進めるように指示を貰っていたが、いざその仕事を前にすれば彼にかかる仕事量はこの期間中だけでもけっこうな量があると言えた。
ーーーそんな中。
「津田さぁん…!」
女性社員から悲痛な声が、慧兎へと投げかけられる。
「どうかしましたか? 須田さん」
書類から顔を上げて彼女を見上げれば、須田(すだ)は涙目になってしまっている。
「えっ、どうしたの…」
驚きながらも彼女から事情を聞けば、やはり監査役との出来事がその口から語られていった。
先日の一件は、一応社長から監査役へと話が済まされたと慧兎は聞いていたが、相手はこの分では反省すらしていない様子だ。
むしろ、これはその仕返しのつもりなのかもしれない。
ただならぬ空気を感じて、慧兎は須田を会議室へと連れて行くことにした。落ち着くまではと彼女にコーヒーを用意してやり、できるだけ本人が納得するまで話を聴くことにする。須田もやがて落ち着きを取り戻すと、慧兎たちは持ち場へと戻ることにした。
二人でフロアへと入り、慧兎はようやく飯嶋の席で作業の続きを取り掛かろうとする。
すると…。
そこには、噂の渦中の男である水野が、経理部部長の椅子へと足を投げ出すようにしてふんぞり返っていたのだった。
「ど、…どうか、なさいましたか?」
よくもまあ、問題を起こしている部所の部長席へと大胆にも座れたものだ。
慧兎はこの男の性格に、呆れを通り越して感心すらしてしまいそうになった。
「あの女性とは、ずいぶんと長話だったようだな。待ちくたびれたよ」
誰のせいで遅くなったのか、水野は判っている様子で持っていた書類を机に投げ置く。それを指でトントンと弾いた。
「不明な数字がある。一つ一つの原本となる証拠を揃えて、明日までに提出するように」
その物言いは、ひどく威圧的な態度といえた。
「承知しました」
心とは裏腹に、慧兎はすぐ様そう受け応えする。出来ても出来なくてもそう答えてしまうのは、慧兎の持つ性でしかなかった。
その態度が相手に従順だとでも思わせたのだろうか。水野はまじまじと慧兎の顔を眺め、口元へと笑みを覗かせた。
「…君は、飯嶋部長に付いてるって奴か」
(なん…だ…?)
そのどこか品定めをするかのような視線が、慧兎の心に一抹の不安を与えていく。
「私は…飯嶋部長のサポートをさせて頂いてます。不在中、何かありましたら…」
嫌な視線を浴びながらも、慧兎は事務的にもそう答える。
「あぁ、そうさせてもらうよ」
水野はようやく椅子から腰を上げて、経理部のフロアを出て行った。慧兎は知らず詰めていた呼吸を吐き出すようにして、大きく溜め息を吐いてしまっていた。
「つ…、津田さぁん!」
一部始終を覗き見ていた女性社員の須田が、除菌スプレーとティッシュ箱を両手に持って慧兎の元へと駆け寄ってきた。
「除菌ですよ…! 除菌しましょう!」
そう言って、つい先ほどまで水野が座っていた椅子やデスクへとスプレーを吹きつけてはティッシュで拭きあげていく。
「そうですよ〜! フロアの入口にも塩撒いておきますからね!」
他の女性陣も日頃の恨みとばかりに、塩を取りにバタバタと動き始めた。
「あ……ありがとう…?」
女性の逞しさを目の当たりにした慧兎は、やはり彼女らに辟易しながらも顔を和ませる。
このフロアの女性陣の噂好きにはほとほと参るところだが、皆人柄が良いせいかどこか憎めなかった。
慧兎は綺麗になった飯嶋の椅子を改めて借りると、デスク上に積まれた大量の書類へと再び手をつけ始めたのだった。
一通り飯嶋の仕事をこなした慧兎は、先ほど水野が置いていった書類へと目を通し始めた。
問題視された数字のどれもが、他部所に原本が直接保管されたものばかりだった。数字の内容には問題はなさそうだが、監査の側としては中を確認しないことには納得できないのだろう。
(それぞれの部所に書類を準備してもらうしかないな…)
経理部からのこういった臨時の要請は、先方にとってみれば必要以上の仕事量ともなり迷惑でしかない。しかも不備を疑われた上に緊急ともなれば、どこも忙しい最中嫌がられるのは必至だった。
慧兎はそれでも数字に疑いを持っているのならば仕方がないといった面持ちで、さっそく各部所へと依頼をかけていくことにしたのだった。
幸いなことに翌日には全ての書類も揃い、慧兎は監査室の扉の前に立っていた。
扉をノックしようとした時にふと、菅野の言葉を思い出す。
『絶対に、二人きりにはなるな』
パワハラを気にしてのことだろうが、慧兎は仕事中ならば構わないだろうと扉をノックした。
「どうぞ」
中から声がかかり、「経理部の津田です」と返答して中へと入った。
「早いな」
慧兎が手に持った書類を見て、水野は自分の依頼した書類が揃ったことを把握したようだった。自分が期間を指定したことなど既に忘れてしまっているようだ。
「では、よろしくお願い致します」
丁寧にお辞儀をして部屋から去ろうとした慧兎の腕を、水野はすかさず掴み取った。
(…っえ?!)
「な…なにか…?」
「ハハ。そう露骨に警戒するな。お前は、津田…慧兎、だったな」
掴んだ手をなかなか離そうとはしない水野を、慧兎はさすがに訝しんで相手を見返した。
「君も、私の事をセクハラだのと報告するのかね?」
その手を強く引かれて、慧兎は水野と正面を向かされる形となった。
(強引すぎる…)
「いえ…」
(この人…まだ手を掴んだ程度では、こちらがどうとも言えないと分かってやってるんだ)
向き直れば、掴み取ったその手はすぐさま離される。
けれど、その手は慧兎へと再び伸ばされた。
「なぁ…?」
ポン、と強く慧兎の肩へとその手がかけられた。
「今夜、飲みにでも行かないか?」
(…っは?)
慧兎は思わず耳を疑ってしまいそうになった。
(まさか、急に経理部と親睦を深める気になった…?)
言われた仕事を慧兎が早々に終わらせたから、逆に気を良くしたのかもしれない。
(でも…)
「すみません、仕事が片付かなくて…」
それは本当のことで、慧兎は咄嗟に断りを口にしていた。
「なら、週末はどうだ?」
一向に食い下がらない様子の水野は、肩にかけたその手にぐっと力を込めた。イエスと言わせようとするかのようなそんな強さだった。
「イタ…っ」
慧兎は食い込む指につい声をあげたが、水野はそんな反応にすら臆せずに笑顔をみせた。
(この人、…なんなんだ?!)
慧兎に無理矢理にでも了承させるがための、言わばパワハラでしかない。
水野のもう片方の手が、慧兎の襟元へと触れていく。襟先を整えるかのようなその指の仕草は、いやらしくもまるで誘っているかのような動きを見せた。
慧兎の背筋をゾッと悪寒がかけあがった。
(違う…。これは…パワハラとかじゃなくて…)
慧兎は咄嗟にまた断りを入れた。
「すみません。週末は…恋人との約束がありますので…」
慧兎はあえて“恋人”の存在を口にして、水野との距離をとろうとした。
そんな慧兎の発言に、水野の額には青筋が浮かび上がる。
途端にその指が力任せに慧兎の襟元をグイッと引き下げたのだった。
(なっ?!)
そこまでされるとは思わなかった慧兎は、驚きながらも水野の顔を見返した。水野の視線は何かを見つけたようにして、慧兎の首筋を凝視する。そのままピクリとも動こうとしなかった。
(襟元に…何が…?)
その視線の先に思い当たった慧兎は、ハッと我に返った。思わず水野のその手を振り払ってしまっていた。
「……キスマークとは、大胆な“恋人”だな」
(見られた…!)
思わず慧兎は首筋を手のひらで覆い隠していた。
「それとも、その恋人ってのはアッチのほうか?」
(アッチって…まさか、相手が男性だってことも…?)
慧兎は思わずしまったと顔を歪ませた。慧兎のそんな反応に、水野も己の予想が当たっているのだと確信するようにして口角の端をゆっくりと上げていく。
(どうしよう…どうしたら…)
乱れる心拍をどうにか抑えようと、慧兎は逃げ道はないかと考えた。
(…いや、まだこの人には何の確証もない)
慧兎の恋人が、大胆な彼女なのか。もしくはそれが男性なのか。
「すみません…。プライベートな話は苦手でして…」
書類は手渡してあるから、もう仕事の上では用はなかった。
慧兎は後ずさるようにして水野から離れると、その部屋を逃げるようにして出たのだった。
自身のフロアへと足を向けながらも、慧兎は未だ不安定に心臓を跳ね上げていた。
(大丈夫、バレてはいない。キスマークだって、あっても何の問題もないことだ)
ただ問題なのは、菅野との関係が世間にバレてしまうことだけだった。
それに、このことが菅野に知れてしまったらどうなるのか。今の慧兎にはただそれだけが気がかりでしかなかった。
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