3.鰻屋

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3.鰻屋

 飯嶋の北海道出張による不在は、今日で終わりだ。  監査室であんな出来事があったものの、残りあと一日となったことで慧兎の心も幾分軽くなっていた。  水野にキスマークを見られてしまったことは菅野には隠していたが、本当に気づかれていないのかは定かではなかった。  なんとか今週を乗り越えられそうだと気が緩みかけた、昼時のこと。  あと五分で昼休憩に入る、その時だった。  水野はわざわざ、慧兎のいる経理部のフロアへと姿を現した。 「津田君、一緒にランチでもどうかね? 先日の調書の件で聞きたいことがあるんだが」  経理部の人間が一斉にその水野へと注目を注いだ。女性陣は揃ってギョッとした形相を向けている。それは、慧兎でさえも驚きを隠せないほどの状況といえた。 「え…えと…」  目上の人間から昼のランチを誘われて、しかもこんな大勢の前で断りを入れられる筈もない。仕事を盾にしているあたり、相手は慧兎の逃げ場すら完全に包囲してきていた。 「はい…」  それでもまだ昼のランチならば時間も限られている。数十分のことならばと、慧兎は腹を括って水野とともにフロアを出ることにしたのだった。 (はぁ、最悪だ…。こんな姿を蒼太さんにでも見られたら…)  などと心配しながら、慧兎はエレベーターへと水野と乗り込む。一階まで降りて出入口へと向かっていく。  その先で、慧兎は見覚えのある姿を見つけてしまう。菅野である。 「………!」  菅野とは目があったが、彼は慧兎には構わず水野へと視線を向けていた。そのまま慧兎たちの側へと真っ直ぐに近寄ってくる。 (蒼太さん、どうするつもり…?)  慧兎の不安を他所に、菅野は水野へと笑顔を向けた。 「これはこれは、水野監査役。これからお食事ですか?」 「なんだ、君か」  水野も知った顔である菅野に声をかけられて、足を止める。 「私もこれから食事なんですよ。ご一緒しても?」  そう言って、菅野は半ば強引に入り込むと、そこで初めて慧兎に気がついたかのようにして挨拶を口にしてきた。 「こんにちは、津田さん。私もいいかな?」 「えっ、あ、…ハイ!」  思わず心の返事を大きく返してしまい、菅野には目で笑われてしまった。  慧兎から出た元気な返事に、水野の口元は少々ひきつりながらも苦笑いを返している。 「これから、どちらのお店へ?」  菅野は道すがら水野へとランチの行き先を尋ねた。 「いや、まだ決めてはいないが…」 「あ、じゃあ…鰻なんてどうです? 美味い店、ご案内しますよ」  監査役はまだこの近辺はあまりご存知ないんじゃありませんか?と、菅野は水野からランチの主導権すらをも奪ってゆく。  このやりとりからして、菅野は想像以上に弁のたつタイプなのかもしれないと慧兎は思った。そこまで考えて、そういえば菅野は元営業マンだったことを今更ながらに思い出してしまう。 「…そうだな。そこにしよう」  その、元敏腕営業マンに押されるがままにして、本日のランチメニューは鰻屋に決まった。 (鰻……)  鰻は慧兎も大好物の一つである。  けれど、ゆっくりと味わっては食べられそうにないことだけは慧兎にも容易く想像ができた。  昼時の街中の喧騒とは裏腹に、菅野が案内した鰻屋の店内はとても静かだった。  小さく流れるBGMの琴の音色が、異様なほどに耳についた。その音楽は上品であるにもかかわらず、同じく異様な三人の空気をより一層重くさせているかのようにして店内へと響き渡る。  四人掛けのテーブル席に、慧兎と菅野は並ぶ様にして席へと着いた。菅野の真向かいには水野が座っている。これも彼が細心の注意を払った上での誘導だった。  腕が触れ合うほどの距離にある菅野に、慧兎はつい安堵してしまう。 「ところで、お二人はずいぶんと珍しい組み合わせのようで…」  菅野は横に座る慧兎と水野を見比べながら、そんな話題を振り始めた。  新任監査役と経理部部長の補佐役。ランチを共にする相手というには当然ながら疑問に思う顔ぶれだ。それも菅野ならば、直ちに把握しておきたい問題でもある。 「彼にはな。昼飯を兼ねて、仕事で聞きたい件があったんだ」 「……熱心なことで」  そう菅野が最後に呟いた一言は、水野の“仕事に”向けてではない。水野の熱心さが、“慧兎に”向かっているという意味だ。  それを知る慧兎は、ただひたすら俯くしかなかった。膝の上で握り込んだ手には、変な汗さえ滲み出ている。 (蒼太さんは、どこまで気がついてるんだろう…)  菅野からすれば、慧兎の様子がおかしいことなど端から気がついていたことだった。家で毎日顔を合わせていれば、慧兎の異変など容易に察することができる。  菅野は念の為にと、慧兎の襟元を引けば見える位置にキスマークまでくっきりと残していた。  今日のランチを狙うようにして菅野が姿を現したのも、全てが菅野の確信犯でしかない。飯嶋が不在の今、目を光らせるに越したことはないと注意を払っていれば、案の定、水野は行動に移してきたのだった。 「しかしまぁ、その件は次でいいさ」  菅野がいては、この男が本当に慧兎へと聞きたきことなど聞けはしないだろう。水野は渋々と、運ばれてきた料理を前に箸を手に取ったのだった。 「そうですねぇ。昼休憩の時間も限られてることですし、さっさと食べてしまいましょうか。ほら、津田さんも」 「あ、はい…っ」  菅野にせっつかれるようにして、慧兎もまた箸を手にする。鰻の焼けた香ばしい香りに、慧兎は自分の食欲を思い出した。  菅野が隣に居れば、慧兎の不安もどこか和らいでいく気がした。味すら堪能できないだろうと思っていたその鰻も、お陰かとても美味しく感じられていた。  その日の終業後。  慧兎は早々にマンションへと立ち寄り、家主が帰宅するのを待っていた。  慧兎の首筋に残されたキスマークを水野に見られてしまった出来事を、慧兎は彼にはひた隠しにしていた。そんな場所を見られたとなれば、当然のこと何かあったのだとすぐに気付かれてしまう。やはり彼には、余計な心配事はさせたくはなかった。  それに、水野からはそれ以上の何かをされたわけでもなく、できればこのまま穏便に終わらせてしまいたかった。  慧兎はどこかで、自分と菅野の関係が知られてしまえば、菅野自身にも迷惑が掛かってしまうのだということを恐れていたのだった。 (何かあれば言うようにって、あれだけ心配して言ってくれてたのにな…)  キスマークの件はともかく、ランチに誘われた経緯くらいは菅野に話しておきたかった。  しかしその日は、菅野からは『夕飯はいらない。遅くなる』とだけ連絡が入った。  慧兎はひとりで夕食を済ませると、しばらくリビングで寛いでいた。菅野はなかなか帰宅してこなかった。二十三時には慧兎もベッドへと入っていたが、午前零時を回っても菅野はまだ家には戻らなかった。  一度はウトウトと寝入って熟睡していたのかもしれない。  再び物音で目が覚めれば、時計の針は深夜の午前二時を指していた。菅野がシャワーから上がる音が響いてくる。  どうしても菅野の顔を見て話をしたくて、慧兎は目を擦りながらもリビングへと顔を出した。 「慧兎…? なんだ、起きたのか」  わざわざ起きてこなくても良かったのにと、菅野はまだ眠たそうにしている慧兎へと声をかける。 「おかえりなさい。蒼太さん」 「あぁ、ただいま。慧兎」  まだ髪の濡れた菅野へと抱きついて、慧兎は昼時のお礼を伝えた。 「お昼は、本当にありがとうございました」 「慧兎が礼を言うことじゃない」 「でも…」  菅野に聞きたいことは山ほどあったが、慧兎は何から言葉にすればいいのか決められずにいた。  菅野は首に掛けたタオルで濡れた髪を無造作に自分で拭き取ると、そのタオルを椅子へと投げかける。 「昼休憩もとれなくて、災難だったな」  そう言って、菅野は言葉に詰まる慧兎の唇を口へと含んだ。その唇を割り入った先で縮こまった熱い舌を、吸い付く様にして引っ張り出す。 「ふぅ…、ん……」  慧兎の脳がビリビリと痺れを伴って、思考さえ止まりかける。けれど自分も負けじと慧兎は彼の舌へと縋りついた。  離れ間際に可愛らしい音を残して、菅野は一旦彼の唇から離れた。名残惜しげに慧兎はそんな彼を見あげると、菅野はその手を引いてベッドルームへと移動していく。  そこで再びキスをされて、甘い痺れとともに慧兎の膝が崩れるようにしてベッドの上へとへたり込んだ。 「蒼太さん、実は…」 (いっそ全てを、話してしまいたい)  菅野の優しいまでの愛情に、慧兎はついそんなことを思ってしまう。  せめて、水野と二人になってしまった理由くらいはちゃんと話しておきたくて慧兎は口を開こうとするが、菅野はそんな慧兎に構わず彼の口内を貪るように覆い被さっていく。 「……ぅ、……ん」 「わかってるから、心配するな」  固めのスプリングが音を立てて軋んだ。  菅野は慧兎の両足を抱え上げる様にして両膝の間へと割り込むと、その滑らかな腹部へと吸い付いてゆく。紅い印を残しては、また一つとばかりにその周囲へと吸い付いていった。  そんなところに態と跡を残すような仕草は、本当に誰かへの牽制の印のようだ。  慧兎は腹部に熱をもつそれとともに、内から競り上がる衝動を感じた。 「蒼太さ…っ! ん…っ!」  慧兎の腹部がびくりと波を打った。股の間で次第に反応を返すそれがユルユルと震えを伴っていく。  デリケートな薄い腹へと落とされるキスマークに、慧兎はいちいち腹部を緊張させてしまう。そこを指で押されれば、まるで外から中へと直接刺激を与えられているかのようにして慧兎の身体を震わせた。  疼き始めた奥が、早くと乞い願いながら腹を引き攣らせる。もう耐えられないとばかりに菅野へと訴えていた。  その期待に応えるようにして、菅野の指が彼の中を探っていく。容易くそこへと入り込んだ指先に、慧兎は切な気にそこへと力を込めた。もう離れないでとでも言うかのようにして菅野の指を咥え込んでしまう。 「慧兎、いったん離して」 「ム…ムリ…っ」  力を緩めるなんてできなくて、慧兎は縋るように彼の腕を掴んでいた。  菅野は仕方なくその指を半ば強引に引き抜くと、物足りなさそうなそこへと代わりに自身をあてがった。  引き攣るそこへと押し進めればまだそこはとても窮屈で、菅野さえも奥へと進むのを躊躇してしまう。 「……ッ」  腰をいったん引こうとした菅野へと、慧兎は僅かな力ながらも催促するように、彼の腕を握り込んでいた。 「も、いいから…」  その腕を引いて菅野を自身へと引き寄せる。慧兎は彼の肩を抱き込むようにして菅野へと縋りついた。 「お願い…」  慧兎の中がヒクリと蠢いて菅野を誘う。 「慧兎の頼みは、断れんな」  菅野はギリギリの理性でそんな余裕を口にすると、もう限界だと訴える自身のそれを彼へと突き入れた。 「…ふ…うん…っ!」  揺り上げられる衝動に振るい落とされまいと、慧兎は必死に彼へとしがみ付いた。肩へと掛けた指先の爪が、知らずそこへと食い込んでいく。 「ああっ! …はぁっ!」  何度も繰り返す衝撃を受けながら、慧兎は入り込んだ菅野を一心に感じ入っていた。  慧兎の眉根が一際強く寄せられる。途端に胸が大きくびくりと跳ねて、その首筋が伸びあがった。 「そう…っ」  名前すら呼べないまま、慧兎は身体全体を痙攣させた。その身体を菅野は強く抱き締める。  続く痙攣を合わさった肌で感じながら、菅野はその首筋へとまた音を立ててマーキングした。  またひとつ残されたそれは、あからさまなまでにその首筋へと赤く色づいていく。  離れた唇は、慧兎の唇までもを含み取った。それすらも吸いつこうとする菅野に対し、 「蒼太さん…ダメ、ですよ」  見える位置へのマーキングは禁止だとでも言うかのように、慧兎はうっすらと開いたその瞳ひとつで菅野を制御してみせた。    
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