5.制裁

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5.制裁

※暴力シーンを含みます。 「はーい、コレ。皆んなで食べてねー」  出張から戻った飯嶋は、北海道土産の箱をひとりの女性社員へと手渡した。すると、女性陣から大きく歓声が上がった。有名どころのチーズケーキである。  土産を渡し終えた飯嶋は、自身のデスク上に『至急』とメモが添えられた書類から順番に手をつけ始めた。それは先週の間に、慧兎がまとめておいた書類だ。午後からは社長との出張報告会があるから、今のうちに進めておきたいところだろう。 「慧兎君、出張中に困った事はなかった?」 「あ…はい」  慧兎はとりあえず曖昧に返事をする。 (業務上での問題はなかったし、あの監査役の件はまた改めて報告しよう…)  慧兎は自身の報告は後回しにして、飯嶋の仕事が片付くのを待つことにした。  昼時の休憩時も、飯嶋は慌てた様子でランチへと出て行ってしまった。 (やっぱり忙しい人だなぁ)  慧兎は上司の背中を見送ると、出社途中で購入したサンドイッチを鞄から取り出して自分のデスクへとひろげた。コーヒーを片手に一息つく。  すると、デスク上の内線電話が鳴り響いた。 (……誰?)  休憩時間に内線が入るだなんて急用だろうかと、慧兎はその電話の受話器を上げた。 「はい、経理部津田です」  電話のディスプレイにはあまり見慣れない番号が表示されていた。 《あぁ、昼時にすまないな》  その聞き覚えのある声に、慧兎はギョッとしてしまう。その内線は、監査役の水野からだった。 「お疲れ様です」  平静を装いつつ、慧兎は返事を返した。  水野からの電話での内容は、先日提出した調査書の不明点についてだった。詳しく説明して欲しいと、慧兎に監査室への呼び出しがかかる。 《急ぎで知りたい。休憩中に悪いがよろしく頼むよ》  電話は一方的に切られてしまった。 (なんて強引なんだ…)  社員の休憩時間にまで有無を言わさず命令するなんてと、モラルすらすっ飛んだその行動に呆れと怒りが同時に湧き上がりそうになる。 (怒っても仕方ない…さっさと片付けてしまおう…)  飯嶋にもこの件は報告しなければならない。けれど、その飯嶋の現在の多忙さは慧兎には十分すぎるほどに理解できていた。 (やっぱり、メールだけにしておこう…)  監査役からの要件を簡潔にスマホから送って、慧兎は先日作成した資料をまとめて抱え込む。飯嶋からの返事も待たぬまま、慧兎は監査室へと向かって行った。  コンコンコンとドアをノックをすると、扉の奥から返事が返った。 「経理部の津田です」 「入りなさい」  やはり威圧的な返事のあとで、慧兎はドアを開けた。  この監査室のすぐ隣には菅野の専務室があるが、昼休憩中は菅野も不在だろう。そうと思うと少しだけ心細さを感じている自分がいて、慧兎は苦笑を浮かべる。 「昼休みにすまないな。そこに掛けてくれ」  客用の二人掛けソファーを指さされて、慧兎はソファーへと腰を下ろした。 「あの、どの件でしょうか?」  早く終わらせてしまいたいがあまり、慧兎は自分からつい急かすようにして持ってきた書類の束から一覧を取り出した。わずかに身を乗り出せば、水野からは「そう、せっつくんじゃない」と咎められてしまう。  続いて水野は、自身の首元を指差して慧兎へと問いかけた。 「君のアレは、…男か?」 「…っは?」  そこで慧兎は、自分が呼び出された理由が、先日のキスマークの件なのだと気がついた。 (なんでこの人が、そんなことにまでいちいち拘るんだ?) 「だから、キスマークだよ」 「…その件でしたら、先日もお答えしましたが」  慧兎はさすがに水野へとムッとした顔を返していた。同時にあの時の、この男に触れられた指の動きすらをも思い出してしまう。触れられるその骨ばった左指に嵌められた結婚指輪が、慧兎の視界へと映り込んだ。 (この人は、バイ…なのか)  そう思えば、今になって慧兎は自分がいかに軽率だったのかを理解した。菅野がこのことを知っていたのかはわからないが、もっと警戒しなければならなかった相手なのだと今更ながらに悟る。 「まぁそう怒るんじゃない。ただ私は、君と仲良くやっていこうと話しているだけなんだから」  水野は不気味なセリフを吐きながら、あえて慧兎の隣へと腰を下ろした。水野の身体の重みで二人掛けのソファーの片方へと沈み込めば、慧兎の身体もわずかに揺れ動いてしまう。 「さぁ、この書類の内容を始めから説明してくれ」  慧兎の持ってきた書類の一つを取り上げて、水野は慧兎の肩までをも引き寄せる。ピタリとくっついたスーツ越しの感触にさえ、慧兎は寒気すら覚えずにはいられなかった。  既にセクハラの域だ。  けれど、相手が男性ならばこれはただのスキンシップだったと簡単に言い逃れられる行為でしかない。  それに、今は業務中だった。慧兎が仕事を投げ出して逃げてしまえば、この男からのそれなりの報復は免れはしないだろうと想像がつく。経理部への風当たりもますます強くなる一方だろう。  推し黙る慧兎を抱き込んだ腕とは反対の手が、慧兎の太ももを撫で摩った。その指が慧兎の股下を掠め取っていく。 (き…気持ち悪い…)  膝の上で握り込んだ手につい力が籠められた。 (でも、今はとりあえず我慢するしか…)  ここは自分さえ我慢すればいいと、そんな思考に行き着いた慧兎の脳裏には、菅野の姿が浮かび上がった。  慧兎ははっと我に返り、再度手のひらを強く握り込む。これでは社畜でしかなかった前の自分と、何ら変わらないのではないのかと気がついたのだった。  我慢している自分が、急に恥ずかしくなってくる。 「あの…、やめて…もらえませんか」  言わなければと、慧兎は口を開いた。抱き込まれていた腕を自分から無理矢理外させた。  水野の顔色が途端に険しい表情へと変貌していった。 「…君は、世の中を弁えた人間かと思っていたが、割に生意気だな」 (そんなこと、どう思われたっていい) 「ご報告には再度、上司とともにあがらせて頂きますので」  慧兎はしっかりとした口調でそう伝えると、その場から去ろうと椅子から立ちあがった。 「…っ、逃すか!」  慧兎は腕を取られて、水野側へと引き戻される。先ほどまで座っていたソファーへと、乱暴にも沈められてしまった。 「ちょ…っ? なに、するんですか…!?」  馬乗りになった水野は、いつの間に取り出したのかそのハンカチを慧兎の口へと押し込んでいく。 「ふぅ……っ?!」  上着を半ばまで脱がされて、慧兎の両腕は背中越しに拘束されてしまっていた。両膝の上から乗りあげられて身動きが取れず、重みでソファーが軋み上がった。 (これって、もう犯罪なんじゃ…!)  既にセクハラの域を越えて犯罪に足を踏み入れていることに、当人は気がついているのだろうか。  大人しく従順な部下かと思いきや、自分の予想とはまるで違った部下の態度に、水野は我を忘れて怒りの形相を慧兎へと向けていた。 「こんなこと、誰にだって言えたもんじゃないだろう?!」  水野は慧兎のベルトへと手をかけて前を外してしまう。 (や、嫌だ…っ!)  ズルリと下げられたズボンから慧兎の下肢が晒されると、さすがに慧兎も身体ごと縮み上がった。 (ヒッ…!)  慧兎の腹部にかかっていたシャツが捲れ上がり、白い腹が水野の目前に曝け出された。 「…なんだ……?」  水野は目を見張った。  そこには昨夜、菅野が付けたばかりの真新しいまでに赤く色づいたキスマークが幾つも散りばめられていた。 「ふっ! ンン…ッ!」  慧兎は晒された腹部など構わずに、精一杯身を捩らせて逃げようとする。助けを呼ぼうとするも、この階の人間は皆、昼食へと出払っていて、辺りは静まり返っていた。 「はっ! なんとも……これは、すごいな」  バタバタと暴れる度に波打つ慧兎の腹部へと、水野は跡を辿るようにして指を滑らせた。 「…やっぱり、男か」  確信したかのように、その顔は不敵に微笑んだ。 「なにも君に、その彼氏と別れろなどとは言わんよ。お互い、楽しめばいいだけの話だろう?」  水野は自身のベルトをも慌てた様子で外そうと手をかける。そのズボン股では不自然にも窮屈そうに、中のモノが膨れ上がっていた。  男の興奮を眼前に晒されて、慧兎の全身にゾッと鳥肌が駆け巡る。 (逃げないと…!)  その一心で、慧兎は渾身の力をもって思い切り身を捩らせた。  すると慧兎は、ソファー横に置かれたローテーブルへと強く頭を打ちつけてしまった。  ガンッ!と言う衝撃音とともに、慧兎の視界もぐらりと揺れた。 (やば…っ)  自分の身体がソファーから床へと崩れ落ちてゆく。  身動きが取れないまま、慧兎はソファーとローテーブルの間の隙間へと転がり落ちていった。  それでも慧兎へと顔を近づける男を、虚ろになりながらもぼんやりと眺めるしかなかった。 (まずい…どうしよう、蒼太さん…)  やっぱり菅野にはちゃんと伝えていれば良かったと、今更ながらに後悔の念が頭をもたげた。 (ごめんなさい…)  心に謝罪の言葉が浮かぶ。隣の専務室とを隔てる壁へと、焦点の合わない目を泳がせた。  指一本たりとも動かせない慧兎の身体を、水野は好きに撫で回していく。  すると突然、バタバタと複数の足音が入り乱れる音が部屋中に響き渡った。 「慧兎…!!」 「大丈夫?!」  声とともに抱き起こされたその顔は、慧兎がよく知っている顔だった。 「飯嶋…部長?」  頭部へと未だ響く鈍痛に耐えながら、慧兎は飯嶋が助けにきてくれたのだと知る。  けれど飯嶋は、そんな慧兎から目を離した直後、 「やめろっ、菅野!!」  飯嶋が叫ぶその視線の先では、水野へと馬乗りなった菅野の姿があった。  菅野は遠慮など欠片もない勢いで水野を殴りつけている。 「やり過ぎだ!!」  咎める飯嶋の声など耳に届いてはいない様子だった。 「もう、いいですから…!」  咄嗟に起き上がった慧兎は菅野を止めに近寄ろうとするが、足が絡れるようにしてその場へと崩れかかった。その身体を飯嶋が慌てて受け止める。 「慧兎?!」  菅野がようやく手を止めて慧兎へと駆け寄るが、慧兎は頭を抱えるようにして意識を遠退かせていく。  遠のく意識の中で菅野と飯嶋、そして水野が交わした会話を、慧兎は虚ろなままに聞いていた。 「貴様ら…っ、このままで済むと思うな!」  そう言いながら、水野はスマホを取り出して連絡先を検索する。法律事務所の名が表示された連絡先を探し出した。 「君らには、到底勝ち目のない弁護士だぞ!」  さぞかし頼りにしている弁護士のようだったが、菅野は呆れたような眼差しで水野を見下ろした。 「バカか。暴漢から助けた…、それだけの話だろう」 「そんなもの、そっちが誘惑してきたんだ!」  水野はそう叫んで、慧兎を指差したのだった。  どこまでも下劣な男に、飯嶋でさえ慧兎を抱き込む腕へと怒りのあまり力が篭る。  けれど菅野は、未だ床へと尻をつく水野の側へと近づくと、男を真上から見下ろして不敵に笑った。 「…俺は、絶対に逃しはしないと、言った筈だが」  静かになった部屋で、菅野の冷たいまでの声が響き渡った。  どこかで聞き覚えのあるその台詞に、水野はズボンを下げた情けない姿のまま固まってしまう。  果たしてその台詞を聞いたのはいつだったのか。 「…まさか…、お前……?」  昨晩の酔いしれた中で聞いた、酔いも一瞬で醒めるような菅野のあの声が脳裏へと蘇った。 『私なら、手を出したその男の未来なんて、ブッ潰しちゃいますけどね』  この菅野が言うからには、それなりの証拠を揃えているだろうことだけは必至だった。  水野の顔は次第に青ざめていく。  この菅野と仲良くも飲み交わしたのは、いつの話だったか。自分はどこまで余計な話をしてしまったのだろうかと今更ながらに記憶を辿れば、なんとも都合の悪い記憶しか浮かんはこなかった。 「菅野…お、お前…! 態と、飲ませたな…?!」 「勝手に泥酔しただけだろう?」  まさか三件もハシゴするとは思わなかったと、菅野は指折り数える仕草をしてみせる。 「あ、最後はおひとりだけ、違うお店に入って行かれましたっけ?」  女性に誘われるがままに、いかがわしい店へと消えていった話を振れば、水野の顔色は今度は青から赤へと変貌していった。 「まぁ…、そうだな。ウチの会社から身を引くというのならば、“警察沙汰”にまではしないでおいてやろうか…」  警察という言葉に、水野は自分のしでかした失態が既にセクハラの域をこえて犯罪に至っているのだとようやく自覚する。  そして、水野に当てがわれた監査役という地位から退くのならばこの件も警察沙汰にはしないという菅野からの甘い誘惑に、水野は渋々ながらも乗らざるを得なくなった。 「しかし…果たして、ソチラの銀行さんがそれで終わってくれるものかどうか…」  菅野はさも困った素振りでそんなことを呟いた。  そこまで聞けば、水野だって一介の雇われ役員でしかない。その言葉の意味がわからないわけではなかった。  再び青ざめていく水野をそのままにして、菅野と飯嶋は慧兎を連れて監査室を出たのだった。  
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