秋、新月の夜

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「んん?」 「血だらけだぞ、ちょっと拭いてやる」 「んへっ」  またもやにやにやと笑う赫の後ろに回り、血で固まった髪を拭く。丁寧に手でほぐし、赫がどこかから出して手渡してきた櫛で整えていく。 「ううん……やっぱり綺麗には取れねえな」 「川で洗えばいいかな?」 「だろうなあ。まあ今の時期寒いし、濡らしたら簡単には乾かねえから……そのうち天気がいい日があったらでいいんじゃねえの」 「あ、そうだ、ぼくね、温泉掘ったんだよ! 今度案内してあげるね」 「掘った……?」  顔や傷口にこびりついていた汚れも拭ってやり、さっぱりしたところで夕餉にする。  きんぴらを口に運んだ赫は、「うまい」と顔を綻ばせた。 「こうやって誰かと並んで食事するのは子供の時以来だな。よく兄弟で獲物つついてたっけ」 「お前、親兄弟いんのか」 「そりゃあいるよ、木の股から生まれたわけじゃないからね。まあ小さくてなにもできない出来損ないだったから、すぐに捨てられちゃったけど」 「お、おう……」  あっけらかんと言う赫に何と返したらいいかわからず、修造は自分の膳に向き直った。麦も雑穀も混ざっていない米はそんなに食べられるものではない。  無言のまま食事を終え、膳を片付ける。お椀を拭いたり釜を洗ったりしていると、布団から飛び出た赫の耳が自分を追ってくることに修造は気がついた。 「……」  部屋の右に行けば右に、左に行けば左に。本人は寝たふりをしているつもりなのかピクリともしないが、くるくると耳だけが動いている。 「何してんだよ」 「えへへ」  隣に座って耳を引っ張ると、赫がいたずらっぽく目を開けて仰向けになった。 「なんかね、誰かがこの家にいてくれて、それが修造だってのが……すごく嬉しい」 「そうかい」 「うん。ほら、さっきも言ったけど、ぼく、小さかったし化けるのも上手くなくて、なかなか人を食……、力を増やせなくて、それで、『お前はいらない』って捨てられちゃったから。こういうのね、ずっと羨ましかったんだ」  修造からしてみれば赫はかなり大きな狐なのだが、化け狐としては小さい方なのだろう。そういえば、あの黒狐は確かにもっと大きかったように思う。  きゅんきゅんとまたどこから出すのかよくわからない声を立てながら、赫は修造の手に頭を押し付けた。暗くなってきた部屋の中にぽっぽっと火の玉が浮かび、明るく室内を照らすと同時に空気を温める。 「だから『嫁をくれ』なんて言ったのか」 「……うん」  小さく頷いた赫は、気まずそうに布団を引き上げて顔の下半分を隠した。 「ごめんね……祝言ってのは嬉しいことだから、およめさんってのはみんな幸せで、相手のことが大好きになるもんなんだと思ってたんだ。だから、修造も、喜んでくれてるもんだとばっかり思ってて……」 「なんで俺なんか嫁にしようと思ったんだ」 「え?」 「いや、だって……男だし」  布団から覗く目はきょとんとしていた。 「男は『およめさん』になれないのか?」 「ああ……まあ、あんまり普通はねえよな、多分……?」  自分から聞いたものの、聞き返された修造はたじたじとなった。少なくとも修造は知らない。しかし修造のように一人ではなく、複数人で狩りをする猟師たちはそういう仲になることも多いと聞く。貞宗だって茶屋にお気に入りの男の子がいるというし、いるところには男の嫁もいるのかもしれない。 「んん……でもぼくは、修造がいい。だって、優しいもん」 「優しいかぁ?」  少なくとも修造は自分のことを優しいと思ったことはないし、そう評されたこともなかった。思わず呆れたような声を出すと、うん、と布団の中で赫が頷いた。 「前も言ったけど、修造は煙草やらないし、動物だって撃たないじゃないか。それに、僕にしょっちゅう供え物を持ってきてくれたのは修造だけだよ」 「持ってってたけど……」  修造は言い淀んだ。確かに供え物はしていたが、赫に対してではない。  宗二郎の弟子になって山に入った時、最初に教わったのが「山の神様にきちんとお礼をすること」だった。大猟になった時は、獲物の一部を炎岩の横に供えて山の神様にお礼をしなさい、そうしないと機嫌を損ねた神様が炎岩の中から狐を出してしまう、と言われたのだ。  信じていたわけではない。だが狐が出てくる、と言われると何となく怖くて、修造は山に入る度、ちょこちょこと炎岩の横に獲物や握り飯を置いては手を合わせていた。 「石の中だったから食べられなかったけど、ぼくを気にかけてくれるその気持ちが、凄く嬉しかったんだ」 「そ、そうか」  うっとりと嬉しそうな顔で話す赫に、真実を告げられなくなる。居心地が悪くなった修造は、慌てて少し話を変えた。 「でもほら、オレお前のこといきなり殴っただろ」
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