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家の前に回り、井戸の蓋を開ける。桶を引き上げると、なみなみと入った水に修造の顔が映った。目つきの悪い一重の三白眼に太い眉、太い鼻筋。朝手櫛で整えただけの短髪はまだ寝癖を残している。
「くそっ……ふざけんなよ」
小さく毒づいた修造は、頭の上で桶を逆さまにした。夏でも冷たい水の塊が脳天にぶつかり、割れて地面に飛び散った。
(人食い狐と結婚しろ、だと?)
そんなの、食われろというのと同義だ。いくら叔父の頼みでも冗談ではない。ぼたぼたと顔を伝って垂れる水を手の甲で拭う。濡れて張り付く着物は、さっきよりも不快感を増していた。
なんて浅はかな約束をしてくれたものだ。何と言われたか知らないが、どうせ狐が修造を指名してきたというのだって嘘だろう。自分と血の繋がった息子である貞宗(サダムネ)がかわいいから、修造に行かせようという魂胆に違いない。
ざあ、と田んぼの上を吹き抜けてきた夏風が修造に吹き付けた。体の熱が奪われて行くのとともに、滾っていた怒りの感情も冷めていく。
(まあ、でも、仕方ないか……)
銃が撃てなくなり、かといって農作業の手伝いに出るわけでもなく過ごす修造が叔父叔母にとって重荷になりつつあることは分かっていた。これまでの恩を返すにはちょうどいい機会なのかもしれない。
大きく息を吸う。風が運んできた草いきれが、修造の鼻の奥をつんと刺激した。
あるいはすべて叔父の夢か妄言であってくれ、という修造の願いは、呆気なく次の満月の日に打ち砕かれた。
「お、おい、本当にお狐さんのいらしよったぞ」
ばたばたと走ってきた従兄の貞宗は、夕陽の落ちた中でもわかるほど蒼白な顔をしていた。どこか疑わしげだった室内の空気が、その一言でぴんと張り詰める。
「そうか」
白無垢に綿帽子を被せられた修造は、叔母と大伯母の手を借りてよろよろと立ち上がった。慣れない太帯が窮屈で仕方ない。頭を動かすたびに無理やりくっつけられた簪が揺れるのも気になる。
「あのな、修造、もし……」
修造の顔を見た叔母のトヨが何かを言いかけた瞬間、庭の玉砂利が音を立てた。
「修造、迎えに来たよ」
続けて聞こえてきた声は、まだ少年のような、だが年齢の重みのある不思議な響きをしていた。人ではありえない、二重に響くような声。そわそわと皆が顔を見あわせていると、宗二郎が足を引きずりながら部屋の中を突っ切り、障子に手をかけた。
するりと開けられた先に、狐がいた。
大きな――庭木と比較するに、修造と同じくらいの狐が、薄闇の中に紋付き袴を着て立っている。特筆すべきはその大きさよりも色で、赤々と、まさに炎のように毛皮が明るく輝いていた。普通狐というのは腹側は白く、耳の先などは黒いものだが、そこにいる狐は見る限り全身が燃えるような深い橙色だった。大きく太い尻尾が、どんど焼きの火のように揺らめいている。深い紅色をした瞳が、まっすぐに修造を見つめていた。
ひゃ、と誰かが悲鳴を飲みこむ息遣いが聞こえ、狐の視線が動く。
「お久しぶりです、宗二郎さん。お体の具合はあれからいかがですか」
「まあ……問題ねえよ」
不機嫌そうな宗二郎の回答に、狐が一瞬ほっとした表情をしたような気がした。
宗二郎の横を通り、縁側に出る。沓脱石の上にある白い草履に足を伸ばすと、飛んできたトヨが草履を押さえた。綿帽子がずれないようにしながらなんとか足先を押し込むと、すかさず毛むくじゃらの手が差し出される。
「初めまして。赫(カク)といいます」
狐のくせに名前があるのか、と思った。生意気な。
「修造だ」
呟いてその上に手を乗せる。ぺたりとした肉球と硬い爪、ふわふわとした毛の感触がした。紅玉のような目が、きらりと嬉しそうに輝く。
庭に降りた修造は、赫に手を取られたまま振り返った。トヨと宗二郎、貞宗、大叔母夫婦、大叔父、その息子夫婦……。今日のために駆けつけてくれた――といってもほとんどが燭台村内に住んでいるのだが――人たちが、困惑顔のまま縁側の上に出てきている。ゆっくりと彼らを見回した後、修造は最後にまたトヨと宗二郎を見つめた。暗くなってきた中、今にも駆け出しそうになるトヨを宗二郎が押さえているようだった。
「……今まで、お世話になりました」
頭を下げる。きっともう、会うことはないだろうと思った。これが最後の姿なら、みっともないところは見せたくない。うつむいたまま強く目を瞑る。
「大事にさせていただきます」
隣で狐も頭を下げたようだった。どうせ取って食うつもりだろうに、何を言っているんだか。小さな腹立ちは、修造の涙を引っこませるのに十分で、かえってありがたくもあった。
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