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これだけで嬉しくなるなんて、自分はなんてちょろいのだろうか。頷いた修造は、全身の力を抜いて赫に体を預けた。普段赫がやってくるように、頭を赫の顎の下に擦り付ける。
赫に触れる頬から、とくとくと小さな鼓動と柔らかな体温を感じた。山道で少し弾む息遣いと、さくさくとした足音が耳に心地よい。赫の腕に揺られているうちに、すぐに家についた。ころりと上がり框に転がされ、足を洗われる。
「んー」
かじかんだ足には、冷たい水ですら温かく感じた。指の間を撫でる赫の指がくすぐったくて気持ちいい。もっと触ってほしい、と思うもののすぐにその指先は離れ、水滴を拭われて終わってしまう。
「かく。かーくー」
転がったまま、隣で足を洗う赫に修造は手を伸ばした。なあに、とあきれ顔をした赫の膝に上り、べたべたと全身を撫でまわす。
「くせえから、俺の匂いにしてやる」
「な、何さっ、さっきからもうっ……」
額を合わせるようにして言うと、頬を赤らめた赫が柳のような眉をしかめた。口をとがらせるような表情をしたかと思うと、炎のような耳がピンと立つ。
「……もしかして修造、ぼくが皆と温泉に行ったの嫌だった? でもそれならどうして一緒に来なかったのさ」
「うるせえっ」
「ねえ修造」
あ、と思ったときには修造は板張りの上に押し倒されていた。肩口に置かれた赫の手は軽いのに、身をよじってもびくともしない。
じっと修造を見つめる紅い目に、すう、と酔いがさめていく。
「教えて。ぼくは狐だから、ちゃんと言ってくれなきゃわかんない。……ぼくが、みんなと温泉に行ったのが、嫌だったの?」
暗闇の中で狐火の明かりを反射してきらきらと輝くその瞳は、どこか悲しげだ。修造の心の中で渦巻いて絡み合っていた気持ちがほどけていく。
「……うん」
頷くと、「じゃあなんで嫌って言わなかったのさ」とさらに質問が飛んでくる。
「言える状況じゃなかっただろ。気づいた時には全部決まってて……お前、オレのことを差し置いて勝手に決めてただろうが」
ぼそぼそと恨み言を呟く。こんな小さなことで怒っていたなんて、赫は修造に幻滅しただろうか――ついこの前「そのうち自分が優しい人間ではないことに気づけばいい」と思っていたのにもかかわらず、突然そんなことが気になってくる。
だが、赫は思案するように耳を回し、それから耳をぱたりと伏せた。
「そうか……そうだね。確かにぼく、あの時修造の家族と話せたのが嬉しくて舞い上がってて、修造に聞くの忘れてた。ごめん」
きゅう、と鼻先が修造の頬に押し付けられる。ゆらゆらと揺れる尻尾が、赫の背中越しに見える。
「次から、ちゃんと修造に、最初に、尋ねるようにするから」
「いや、まあ、うん……別に」
そこまでしおらしくされると、修造が一人で勝手に怒っていたのが馬鹿のようである。
「オレも、つまんねえことで怒って……悪かったな」
顔をくすぐる髪の毛を指で掬い、長くふわふわとした手触りを慈しみながら撫でる。
(言ってくれなきゃわかんない、かあ)
それもそうだ、と腑に落ちるものがあった。修造はこれまで、誰かに自分の気持ちや考えを伝えたいと思ったことはなかった。叔父夫婦にそんなことをするのは甘えている気がしたし、普段は山に一人でいるだけなので人という人と交流することもない。唯一対等に話す貞宗とも、腹を割った話をする必要性を感じたことはなかった。
自分の態度からそのうち伝わればいいし、もし伝わらなくてもその時はその時だ、と思っていたのだ。
だが、それは傲慢でもあるのか、と今日の自分の態度を振り返って思う。感情に任せて怒り散らしているだけで、赫を困らせていただけである。嫉妬深いと思われるよりよほど恥ずかしい事ではないか。
特に赫は人間ですらないのだから、きちんと説明されなければ分からないことは多いはずだ。赫の髪を指先に巻きつけたまま、修造はその細い背中に腕を回した。
「赫……あのなぁ、あの場所なあ、あんまり……人に教えないでくれるか……?」
「んん?」
「いや、なんつうかなあ……こう……あんまりあそこに他の奴が来てほしくねえっつうか」
「いいけど……あすこの温泉を二人の秘密にしたかったってことかい?」
「まあ、んん」
もそもそと肯定すると、頭を上げて修造を見ていた赫が不思議そうな顔をした。それからじんわりと顔中に笑みが広がっていく。尻尾が震えたかと思ったら、ふきゅうと修造にのしかかるように全身を擦り付けてきた。
「んっふ、ふふ、ふふふふ」
「なんだよ」
「いや、うふっ、修造にもそういうところあるって分かって、嬉しいなって」
どういうことだ。疑問に思いつつ好きなようにさせていると、足に尻尾を絡ませてきた赫はぺたりと修造の胸に顔をつけた。
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