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春、来訪するのは
正月明けの温んできた風に、敷布と襦袢がはためく。それを見上げた修造が眩しさに目を細めると、首を絞められるような声がした。声の方を見ると、熟してきた金柑の下からキジが顔を出している。つぶらな目が修造を見た、と思うや否や大急ぎで庭を横切り、がさがさとグミの木の陰に走り込んで姿を消す。
それを見送り、修造は縁側にはたりと腰を下ろした。
(……白土村、か)
正月に改めて他の人にも聞いてみたところ、白土村については夏頃に大火事があった、それに狐が関係しているらしいという話しか分からなかった。遠くの話なので、そもそも本当のことかどうかも怪しいらしい。だが、それとは別に近くの村で黒い狐を見たという話がいくつかあった。
白土村や、狐が出たという村に行ってもっと詳しい情報が欲しい、という思いはあった。だが、銃を撃てない今の自分では、情報を得られたとしてもどうしようもない。
それに、と床の間に飾った鏡餅をつつく赫を横目で見る。その後ろで揺れる尻尾は、いつの間にか五本になっていた。
(オレが旅に出たら、赫がまた一人になっちまう)
この家で、帰るかどうかも分からない修造を待つ赫を想像すると、それだけで苦しくなってくる。そこまでして黒狐の足取りを追うべきなのか、修造には分からなくなっていた。
アイツに復讐してやる、その一心でここまで生きてきたはずなのに、と思う。父と母、妹の無念を晴らしたいのではなかったのか。しかし、それは赫には関係のない話だし――それ以上に、修造も赫とのこの日常を手放したくなくなっていた。こんなことでいいのだろうか。じりじりと心が燻されているような気分だった。
「なあ赫」
庭を眺めながら名前を呼ぶが、返事がない。
「赫……?」
普段なら犬のように飛んでくるというのに。不審に思いつつ振り向くと、鏡餅の前に座った赫は見たことのないような険しい表情をしていた。じっと畳の一点を見下ろして、思いつめたように眉をしかめたきり、ピクリとも動かないのだ。
「おい、赫? どうした?」
「あ、修造! 洗濯おわった?」
ただならぬ様子に慌てながら座敷に上がると、ぱっと赫が振り向いた。
「終わったが……どうした、どこか具合でも悪いのか?」
「え? ううん、そんなことないよ」
「そうか……?」
目を細めて笑う赫は、もういつもと同じように見える。気のせいだろうか、と修造が考えているうちに、ぴょんと跳ねるように抱きついてきた。
「修造、今日鏡開きでしょ? ぼくさあ、お雑煮が食べたい!」
「いいな。じゃあクワイでも掘りに行くか」
頷いて赫の耳の後ろを撫でる。正月に修造の実家で食べて以来、赫は雑煮がお気に入りらしい。
「鴨のお肉も入れたい! ぼくが捕まえるならいいでしょ?」
「……ああ。鴨獲るなら、垂れ池でいいか?」
垂れ池は村とは反対方向の麓にある池の名前だ。そんなに大きくはないが蓮やクワイが生えており、それを目当てにした水鳥が多く住んでいる。華燭の山の麓にあり、水の流れて池になる様子が蝋の垂れる様子に似ているから垂れ池と名付けられたらしい。
「うん! 垂れ池ならクワイも生えてるし、ちょうどいいね」
ぱたぱたと尻尾を振り、長羽織になった赫を修造は着込んだ。熊手や水筒を入れた籠は、背負うと食い込んで痛そうなので手に持つ。
赫が掘った、庭の生け簀もとい池から伸びる水路を伝い、川へ出る。岩場を飛び降りながら進んでいくと、一月ほど前に正一が落ちていたあたりに差し掛かった。足の進みが遅くなる。
「……ごめんな。赫」
「なにが?」
「あの時……オレが、お前に頼ったりなんかしなければよかったんだ。あんな奴、助けなくてよかったんだ」
きゅ、と肩口で赫が鳴いた。
「ううん、ぼくは頼ってもらえて嬉しかったよ。ここらは急だから、修造でもなきゃ正一は運べなかったろうし……権治も突然のことに平静でいられなかっただけで、そのうち分かってくれるよ」
「赫、お前なあ……」
お人好しにもほどがある。呆れながら修造が空を仰ぐと、視界の端に違和感を覚えた。
そちらに視線を向け、まただ、と思う。焦げた鳥のはやにえ。温泉に案内された日に見たものと同じものが、木の上に刺さっている。
「なあ赫、あれ何か分かるか?」
「え?」
見上げた赫の体が強張るのを、修造は感じた。
「この前もあったんだけど……自然にできるものじゃねえよな? 何か知ってるか?」
「し、知らない!」
赫の声は妙に上ずっていて、修造でなくともおかしいと一発でわかりそうだった。
「気持ち悪いけど……おまじないとかかな? なんだろうね、気にしない方がいいと思うよ」
「あ、ああ……」
違和感を覚えつつも頷く。赫が何かを知っているのは明白だった。そして、それを修造に悟られまいとしていることも。
(突っ込んで聞いてみるべきなのか? でも、必要なことだったら赫の方から言ってくるだろうし……言ってくるよなあ?)
家出見せた険しい表情といい、どうにも赫の様子がおかしい。深く聞きたい気持ちもあったが、信頼していないと思われるのも嫌だった。
考えながら進んでいくと、すぐに溜まり池についた。
池の水面は、川の水の流れを受けてきらきらと陽光を反射している。枯れた葦と蜂の巣のようにからからになった蓮の実が、昼過ぎの風にゆるやかに揺れていた。修造たちにまだ気づいていない水鳥たちはその間で悠々と羽繕いなどをし、のんびりと日向ぼっこをしているようだ。
「よしよし、いるね」
するりと修造から降りた赫が狐の姿になり、目を眇めて尻尾を振った。
「どうやって捕まえるんだ?」
「まあ見てなって」
赫は体勢を低くし、耳をピンと立てた。鋭くなった紅い目に、恐ろしいような、よく研がれた包丁を見ているような感覚になり、修造は目が離せなくなった。
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