春、来訪するのは

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 立ったり座ったり、ぴょこぴょこと修造の横で跳ねたり鼻先で手を押してきたりと赫の動きは落ち着かない。明らかに平常心を失っている赫を見て、修造はかえって冷静になれていた。  とはいえ、どうすればいいのかは修造にもわからなかった。実際の実力差はともかく、赫は黒狐に勝てないと思ってしまっている。そしてそれは、あれだけ憎いと思っていたはずの黒狐を目の前にして、声の一つも出せなかった修造も同じだった。殺してやる、そうずっと思ってきたはずなのに、あの生臭い空気を嗅ぎ、ぬらぬらとした尻尾を目にした途端に気持ちがくじけ、恐怖で体が強張ってしまっていた。  策を練り、罠でも張って待てるのならまだしも、この状況で今勝つのは無理だ。野生の動物と渡り合ってきた修造の感覚がそう告げていた。こういうものは気持ちで負けた時点でほぼ勝敗が決している。 「赫」  ぐるぐると落ち着きなく歩き回る赫を抱き寄せ、膝の上に乗せる。頬のあたりのふわふわした毛を掴み、濡れた黒い鼻先に自分の鼻を合わせた。尖った口の先を吸っているうちに、お互い早鐘のように昂っていた心臓が鎮まってくる。 「ん……ふぅ」  ふるふると耳を振った赫は、人型になって修造の背中に手を回した。ぎゅうと強く抱きついてきてから顔を離す。紅い目はまだ不安そうに瞳孔が開いていたが、恐慌の色は消えていた。 「……二人で逃げるか?」  修造が呟くと、「ふえっ」と赫は耳を回した。 「あいつは赫にここから出ていって欲しいんだろ。そのためにオレが邪魔なわけで……二人でここからいなくなれば、少なくとも今すぐ、オレ達が襲われることはないはずだ」 「そ、それはそうかもしれないけど……修造はそれでいいのか?」 「いいわけないだろう」  修造はゆっくりと首を振った。あの黒狐に負けを認めるなどあり得ない。だが、銃を撃てない修造と、怯えきった赫の二人で黒狐を迎撃するのは無理だ。  血の海に横たわっていた赫が脳裏に浮かび、修造の背中を嫌な汗が落ちていった。ここで間違えれば、恐らく今度は怪我だけでは済まない。 「ただ、一度引くだけだ。必ず機会はあるから、その時に仕掛けてやればいい」 「ぼくは……それには反対だ」  赫は修造をまっすぐ見返してきた。 「機会を待っているうちに誰かが食べられないとも限らないし、そんな危険に宗二郎さん達も、村の他の人達も晒したくない」 「そんな事したって、権治んときみてえに逆恨みされるだけかもしんねえだろ」 「それでも、それでもだよ修造。修造の大切な人はぼくにとっても大切だし……今度は、誰かを犠牲にしたりせず幸せになりたいんだ」  そんな風に思ってくれていたのか。こんな時なのに修造は胸が弾むのを感じた。赫の長い髪を手櫛で梳かし、また唇を重ねる。先程より深く互いを求め合っているうちに、修造の身体の芯が熱を帯びていく。 「赫……」  もっと欲しい。唇の間から懇願するような声を漏らした瞬間、庭の向こうからギャーァー、と吠える声が聞こえた。 「……うん、ありがとう、修造」  瞬きした赫の目は、静かな光に満ちていた。すっと立ち上がった姿は、夕日に照らされて凛と赤い。 「修造は隠れてて。悪いけど、庇いながらは戦えない。……大丈夫、土地勘ならぼくの方がある」 「おい、赫」  修造はそれ以上何も言えなかった。かける言葉が見つからない。覚悟を決めた相手に、一体何を言えばいいというのか。 「きっと迎えに行くから。そうしたら、今度こそ……」  赫がふっと目を伏せると、もう一度叫び声が聞こえた。さっきよりも近い。はっと耳を立てた赫は修造を抱き上げた。 「愛してるよ、修造」 「赫!」  叫んで手を伸ばしたときには、修造は隣の部屋に投げ飛ばされていた。外れた襖の上をごろごろと転がり、壁に突き当たって止まる。 「ばかやろ修造! ほどけちまったじゃねえか!」 貞宗の悲鳴に頭を上げると、ぱらぱらと縄が落ちた。見回すと、実家の炉端に戻ってきてしまっている。 「うるせえな、呑気に縄なんかなってんじゃねえよ」  悪態をつきながら藁を払う。同じく縄をなっている、キセルを咥えた宗二郎と目が合った。 「……夫婦喧嘩か?」 「違います! 黒い狐が出たんです!」  土間に下り、貞宗のであろう草履を勝手に履く。隠れていてくれ、と言われたものの修造は大人しくしているつもりはなかった。覚悟を決めたところで、数回りは大きいあの狐に赫が勝てるようには到底思えなかったのだ。  それに、あいつは修造の仇でもある。赫にだけ戦わせ、自分は家で震えていていいわけがない。黒焦げにされようとも、一矢報いてやらなくてはならなかった。 (要は、足手まといにならなきゃいいんだろ)  土間の隅に立てかけられている猟銃を取る。
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