山の中、木霊する

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山の中、木霊する

 赫との祝言は、初夏の田植え前に行われることになった。  さあ、という微かな音に修造が障子を開けると、夕焼け空なのに小雨が降り始めていた。大きく育って実をつけたビワの葉の上で、小さな雫が跳ねて転がり落ちていく。 「あら、今日にぴったりの天気じゃないの」 「そうですね」  背後から掛けられたトヨの声に頷き、修造はややぎこちない動きでその向かいにある座布団に腰を下ろした。トヨの涙ぐんだ目を見てから、ゆっくりと頭を下げる。 「あの、今日は、本当にありがとうございます」 「なんの。ずっとね、こうやってお祝いしてあげたかったって思っとったのよ。なんもしてあげられんで見送ってしまったのがずうっと心残りで……改めて機会をもらえて、私こそ嬉しかて」  ぐす、と洟を啜る音が聞こえた。戸惑いながら修造が顔を上げると、トヨが目頭を押さている。  修造が「赫ともう一度、きちんと祝言を挙げたい」と言ったとき、一番驚き、そして喜んでくれたのがトヨだった。 「いえ、大切な白無垢も結局駄目にしてしまいましたし……ここまで育てていただいただけで、本当に感謝の言葉もありません」  とんでもないと修造は首を振った。結局白無垢は血がこびりついてしまって取れず、処分してしまうほかなかった。しかしあれはトヨの嫁入りの時に使った、思い出の詰まったものだったはずだ。親を亡くした修造を引き取り、貞宗と同様に扱ってくれた優しさに対し、最後に恩をあだで返してしまったようで心が痛い。 「もうええて。打掛も修造に着てもらえて嬉しかったろうて」  目を赤くしながらそういったトヨは、小さく首を傾げた。 「それにしても修造、本当にその格好でよかったのかい?」 「ええ」  紋付の羽織袴――自分の姿を見下ろし、修造はそう答えた。今度こそ白無垢を仕立てなければ、と意気込むトヨを押しとどめ、この格好を選んだのは修造本人の意思だ。 「遠慮せんでよかったんよ?」 「いいえ、これがよかったんです」  きっと、トヨの中で白無垢というのは一番素敵で、憧れの着物なのだろう。それを着させようとしてくれる気持ちは嬉しかったが、修造はこの格好の方が自分にはふさわしいと思ったのだ。  窮屈な、似合わない白色に身を包んでしおらしく赫の横に沿うのではなく、同じ黒色の姿で堂々と赫の横に並びたかった。一方的にどちらかの色に染まるのではなく、二人で同じ色になる――それが、修造と赫の選んだ姿だった。  するりと襖があき、大伯母が顔を出した。 「修造、そろそろ……」 「はい」  トヨと目配せしあって立ち上がる。するりと胸元に手を入れたトヨは、懐から懐剣を取り出した。なんだ、と思う間もなく修造の胸元に押し込まれる。 「うん。これで、よし」 「あ……」  何かを言わなくてはならないと思ったが、その感情をどう口に出していいのか修造には分からなかった。胸元から覗く白い懐剣入れの房を見下ろしていると、「ほら」とトヨの手が差し伸べられる。
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