夏の蝉、入道雲

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 きゅうぅ、と狐が目を細めて鳴いた。こうやって人の警戒心を解こうとでも思っているのだろうか。人食い狐のやりそうなことだ、と考えていると、突然山の中に大きな屋敷が現れた。 「おお」  長い板塀に大きな門。庄屋もかくやという広さの家がその向こうに広がっているのが見え、修造は思わず感嘆の声を漏らした。狐が得意げに鼻をひくつかせる。  曳手のいない車と、狐火の列が門の前で止まる。また狐に手を引かれた修造が車から降りると、音もなく門が開いた。合わせて、邸内にもぼぼぼと明かりが灯っていく。  ぱちぱちと火の粉の爆ぜる音を聞きながら門をくぐる。左右を見回しても、案の定人どころか狐一匹見当たらない。  邸内も変わらず、間隔をあけて並ぶ火の玉で昼間のように明るくなっていた。玄関から続く廊下の向こうにはこれまた大きな庭があるようで、どこまで続いているものやら家も庭も端が見えない。目を凝らしていると、先導していた狐が振り向き、修造の視線を追って庭を見た。 「庭、作ってみたんだけどどうかな。ヤマボウシと、柿と、あと金柑は植えてみたんだけど、修造は好きな花ある?」 「全部実のなる木じゃねえか」 「うん。だって、そのほうが楽しいだろ」  色気より食い気か。はん、と修造が声を立てると、狐はさらに庭の奥の方を指さした。 「あっちには池も掘ったよ。川から水を引いて、ヤマメとドジョウをいっぱい放したんだ。明日にでも案内するから楽しみにしててくれよ」  それは池ではなく生簀である。所詮狐のままごと遊びか。それにしても、いつまでこの祝言の真似事に付き合えばいいのだろうかと修造は腹立ちが募ってきていた。人を食べたければ、こんな手の込んだことはせず山に入ったときや玄関を入ったときにでもペロリとやってしまえばいいのである。何でオレは庭を自慢されているんだ。  しばらく縁側を歩いた狐は、不意に右手の障子を開けた。だだっ広い畳敷きの部屋だ。床の間の前に、ぽつねんと朱塗りの屠蘇器が置かれていた。新しい畳の青々とした匂いがする。  今度は三々九度か。修造が無感動に眺めていると、不安げに狐の目がきょろりと揺れた。 「人間は夫婦になるのに、サンコンノギというものをやるのだ……よな? 修造」 「そうだな」  答えた修造は部屋の中に入り、分厚い座布団の上に膝を立てて座った。白無垢の裾がはだけ、太い足が伸びる。 「……で、オレは一体どこまで付き合えばいいんだ?」 「えっ?」  苛立ちを隠さずに睨みつけると、狐はきょとんとした顔をした。 「どこまで、って、その……だって、めおとになるんだから、ずっと……いっしょに……え?」 「だから、その茶番にいつまで付き合えばいいかって言ってるんだ」 「ちゃばん?」 「どうせ取って食うだけなのに、祝言の真似事なんて茶番でしかないだろ」  ぺたりと修造の隣に狐が座った。 「待って、修造、なにか勘違いしてるんじゃないか、ぼくは修造のことを食べたりなんか……」 「嘘もいいかげんにしろよ、何が目的なんだ?」  狐の耳がしゅんと垂れ、悲しげな顔つきになる。騙されるもんか、と思った。狐というやつは自分勝手で人を食うものだ。特に、こんなにでかくて人語を操るやつは。  狐の手が、修造の左手を取った。温かい肉球が触れる。 「嘘だなんて、そんな……。ぼくは、ただ修造と一緒になりたくて……」 「うるせえ、人食い狐!」  まだ言うか。思った瞬間、修造は目の前にある狐の顔を平手で殴りつけていた。 「っ」  べちんと小気味いい音が響き、狐の顔が横を向く。大きく見開かれた眼が一瞬だけ修造を見た後に伏せられ、部屋がふっと暗くなった。障子の開く音と、獣の足音が続く。 「な、なんだぁ……?」  驚いた修造が何度か目を瞬いているうちに、目が暗闇に慣れてくる。隣にいたはずの狐も、家じゅうを昼間のように照らしていた火の玉も消え、開きっぱなしになった障子の向こうに高く昇っている満月が見えた。い草の香りの中、小さく水音と、ジィーという虫の声だけが聞こえている。 (逃げてった、のか……? 何故?)  あまり認めたくはなかったが――狐は、おそらく修造より力が強かった。取っ組み合いになって勝てる気はしなかったし、向こうには牙も妖術もある。 「くそ、獣の考えることってぇのはわけわかんねえな」  怒って襲い掛かってくると思ったのに。修造は頭から綿帽子をむしり取り、ついでに白無垢と帯、白い振袖を床に脱ぎ捨てた。襦袢姿で裸足になると全身が軽くなった気がして、大きく息を吸い込んだ。 「あー疲れた……」  固くなった肩を叩き、全身を伸ばす。足先が屠蘇器の乗った台にぶつかり、ぱちゃ、と銚子の中から音がした。 「ん?」
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