月夜に岩、どこか彼方で

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「そうか……」  なんとなく予想はしていた。人がたくさん集まっていて、しかも赫が幸せな瞬間である。そっと起き上がり、部屋の隅に立てかけていた猟銃を取る。くるりと空中で前回りをした赫は、九本の尾を備えた狐の姿になっていた。  朝日に照らされる障子に手をかけた瞬間、その向こうから吹き付ける生臭い風を修造は感じた。障子ごと跳ね飛ばされ、部屋の奥に転がる。銃を構えようとした腕ごと体を強い力で挟まれ、体が浮く。 「修造!」  赫の声が後ろに飛んでいくのが聞こえる。飛ぶように流れていく地面に、ようやく狐に噛まれた状態で移動しているのだと修造は理解した。狐と言っても赫ではない、黎の方だ。 「っ、おい! この野郎!」  首を巡らすと、確かにうねる黒い尻尾が見えた。今すぐ撃ってやりたいのに、両腕はしっかりと牙に捉えられている。じたばたと体を動かすと、ぐるると唸り声が聞こえた。 「修造を放せ!」  赫の声とともに、ぼんぼんと大砲のように火の玉が飛んでくる。ジグザグに走ってそれを避けていた黎だったが、うち一つが当たって「ギャッ」と叫び声をあげた。はずみで転がり落ちた修造が毛の焼ける嫌な臭いと共に左右を見回すと、いつの間にか華燭山の山頂近くに来ていた。開けた岩場の上で、赤と黒、二匹の狐が睨み合っている。赤い方は普通の狐の倍ほどの大きさがあるが、黒い方は更に縦にも横にも更に数回り大きく、左目が潰れてしまっていた。 「んだよッ、出来損ないのくせにっ……なに祝われてんだよっ!」  再び叫んだ黎が真っ黒な毛を逆立て、いくつもの火の玉を飛ばした。だが、尻尾を赫が振り立てると、そのすべてが煙のように消えてしまう。ギョッとした顔でそれを見た黎が、赫の尻尾に目をやって唸り声を上げた。 「調子に乗りやがって!」  大きく跳ねて赫に飛びかかるが、赫はひらりとそれを避けて黎の左前脚に噛みついた。黎がそこを逆の前足で叩く前に身を躱す。代わりに叩かれた石が跳ね跳んでいく。また黎が飛ばした火の玉を赫がかき消し、今度は自分から炎を飛ばす。いくつかは消されたものの、二つが黎の黒い毛皮に当たり、毛皮の縮れを増やした。  不思議な静けさの中、大立ち回りを演じる黒い狐に、修造はそっと銃口を向けた。動きを止めればすぐに撃ち抜いてやる姿勢である。  今度の決着は、早かった。  この前の様子が嘘のように、赫は自分より大きな黎の攻撃をいなし、有利に立ち回っていた。押され気味になった黎が一歩引いたところに飛びかかり、腹這いにさせて首に噛みついたのだ。 「っ……!」  大きく体を振った黎が赫を跳ね飛ばす。再び牙をむき出しにした黎だったが、修造に狙われていることに気づいて動きを止める。  黎の前に立った赫は、黒い毛に焦げ跡と泥がつき、血に濡れた黎を悲しげに睨んだ。 「……ねえ、もうやめようよ、黎。もう……ぼくのほうが強いのは、分かっただろ。だからさ、人なんて食うのは止めてさ……」 「ふざけるなっ! お前みたいな落ちこぼれなんかに、この俺が、負けるわけないだろ!」  ピンと耳を立てたままの黎が叫ぶ。 「俺の方が強いんだよっ! だから、だから、お前なんかじゃなくって……俺が、ここに住むんだ!」  ここにきても黎の右眼は爛々と燃えていて、まるで明けの明星だ、と修造は思った。これから明るくなる空に抵抗する、最後の星。 「お前、赫が羨ましいんだろう」  修造が言うと、黎の耳がピクリと動いた。 「ずっと見下してた赫が、オレと祝言を挙げてて、村にも受け入れられてきてて……それが許せないんだろ。自分は大切にしてもらうために頑張って強くなって、それなのにどの村に行っても上手くいかないんだから、尚更だよな」 「何だお前、知った口を……!」  黎の視線が、赫から修造へと動いた。ふうふうと体を膨らませる姿は、必死で虚勢を張っているようで痛々しくもあった。 「吉津村、って知ってるだろ。ここから十里くらい離れた村だ」 「それがどうした」  怪訝そうに黎が眉間にしわを寄せる。今何の関係があるのかという顔だ。 「オレは、そこの生まれだ」  一瞬だけ、黎が悲しそうな目をした――ように見えた。だが首を振った黒狐は、それまで以上に憎らしげな表情になっていた。 「ふん、恩知らずどもの生き残りめ。道理で人のことを平気で撃ったりするわけだ」  小さな村だったのだが、修造のことは覚えていないのだろう。そういうところだ、と思いながら言葉を続ける。 「……オレは、お前のこと、格好いいと思ってたぞ」  そう、あの日まではそう思っていた。神秘的に光る夜空のような毛皮に、普通の狐の何倍もある体躯。長い尻尾を揺らめかせてたまに村の中を歩いている様子は、近づきがたいほど美しく、誇らしくもあった。 「後からなら何とでも言えるだろうが!」
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