夏の蝉、入道雲

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 持ち上げた銚子には、しっかりとした重みがあった。三段になったおちょこのうち一番上のものを手に取って中身を口に含むと、とろりと甘く馥郁たる香りが広がる。今までに修造が飲んだ中で、掛け値なしに一番美味い酒だった。座り直してちびりちびりと舐めるように飲むうちに、くさくさした気分が少しずつ宥められていく。  銚子が空になっても、狐は戻らなかった。ならば好きにさせてもらおう、と酒のおかげで少し気の大きくなった修造は落としていた懐剣を拾って縁側に出た。明かりはないが、満月のお陰でよく見える。好奇心のままにうろつき、障子と襖を開けていくが、どの部屋もただがらんとしているだけで生活感も人気もない。押し入れの中すら空なのだ。つまらないな、と思いながら何部屋開けたかわからなくなってきた頃、修造はようやく他と様子の違う部屋に行き当たった。蚊帳の吊られた部屋の中央に、分厚い布団が二組敷かれているのだ。 「なんだ、あいつ初夜までするつもりだったのか? 冗談じゃねえや」  しっしっ、と足で片方の布団をずらす。狐に抱かれるくらいなら、食われる方が数段マシである。見たこともない厚さの布団の中に潜り込むと、なんとも柔らかく不思議な心地だが夏には暑すぎて、しばらく試行錯誤した後修造は掛け布団の使用を諦めることにした。  狐はどこに行ってしまったのか。なぜこんな祝言のまねごとを修造としようとしたのか。気にはなるが、疲れと面倒くささの方が勝っていた。探すのも話をするのも明日でいいだろう。庭の虫の声を聞きながら目を閉じ、ふわふわとした布団に身も心も溶けていくような感覚を楽しむ。  眠りに落ちる前、きゅうきゅうという鳴き声が遠くから聞こえた気がした。
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