夜、なくのは何か

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夜、なくのは何か

 ごう、と吹きつける熱風が肌を焼いていく。  村の家々が燃える中、幼い修造は母に手を引かれて走っていた。腕がちぎれそうに痛かったが口に出せるような雰囲気ではなく、引きずられるように足を動かす。 「おっ母、お父は……」 「大丈夫、大丈夫やけん走らんね!」  逆の手で妹を抱えた母は、炎の音と妹の泣き声に負けないように叫び返してきた。嘘だ、と思ったがそれも口に出せない。  だって、最初に火が出たのは父たちが向かった社だったのだ。村の端にある大きなそれは、数年前に村に来た、「神様」を自称する黒い九尾の狐のために皆で建てたものだ。狐の艶やかで美しい毛皮に合わせ、黒くピカピカに塗り上げられた社に出入りし、狐様と直接言葉を交わせる父は、修造の誇りだった。  今日は、その狐に収穫した作物を捧げに行く日だった。それがなぜ、こんなことになっているのか。父は「心配するな」と言っていたではないか。狐様ならきっとわかってくださる、と。  あの夜空のように綺麗な狐が村を焼くなんて、修造には信じられなかった。  視界を覆う黒煙が目に沁み、焦げた匂いが充満している。聞こえてくるのは炎の爆ぜる音と助けを求める悲鳴、うめき声ばかりだ。自分たちが今どこに向かっているのか、もう修造には分からなかった。息を吸うたびに喉の奥が焼けるように痛く、今にも足の力が抜けそうだった。だが、立ち止まるわけにはいかない。修造たちと同じように逃げ惑う人達にぶつかり、道端で焼ける人たちを避けながら、とにかく進む。  どれくらい走っただろうか。不意に強い風が吹き、修造の周りの黒煙が吹き飛ばされた。 (た、助かった……)  新鮮な空気を胸の奥まで吸った修造が額の汗を拭った瞬間、目の前に黒い狐が現れた。修造の倍以上はある高さの赤い目に、火の粉を浴びてきらきらと輝く真っ黒な毛皮。太く豊かな尻尾は九本もあり、それぞれが別の意思を持つ生き物かのようにゆらゆらとうごめいていた。 「あっ、ここにいた」  声を上げる暇もなかった。  ふわりと生臭い風が吹いた、と思ったときには、修造のすぐ横に狐の顔があり、そして牙の間から茶色い着物の端が覗いていた。 「え?」  繋いでいた母の手があったはずの場所を見る。消えていた。  手をひっくり返し、握ったり開いたりを繰り返したのち、修造は狐をまた見上げた。狐が口を動かすと、ばきぼきと何かが折れる音がした。 「やめろおおおっ!」  大声を上げながら狐に飛び掛かったが、太い脚の一閃で跳ね飛ばされた。ごろごろと転がったものの、また起き上がって狐に駆け寄る。また蹴られる。三回目にして邪魔だと思われたのか、背中を踏みつけにされた修造は身動きが取れなくなった。唸りながら黒狐を睨むと、ゆっくりと嚙み砕かれ、飲みこまれていく母と妹が見えた。  最後に引っかかった草鞋が吐き出され、口の端についた血を舐めとる様子を、修造はただ見ていた。  見つめることしか、できなかった。 「……めろ……っ」  掠れた声で呟くと、ぎょろりと赤い目が修造を見下ろした。
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