夜、なくのは何か

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「乳飲み子と、孕み女。甘くて、柔らかくて、精気にあふれていて……強くなるのにうってつけのご馳走なのに、邪魔しないでくれるかな」 「……ん、お前……っ……!」 「なに、聞こえないよ」  修造を押さえつけていた狐の脚がどかされる。咳き込みながら起き上がった修造は、同じ言葉を繰り返した。 「お前、村のッ、守り神なんじゃないのかよ! 何で……なんでこんなことするんだ! 村を大切にするんじゃないのかよ! 嘘つき!」 「なんでって……だって、俺のこと大事にしてくれなかったのはそっちじゃないか。今年は凶作だったからお米の量少なくて申し訳ないって……いいわけないだろ、そんなの。約束は約束だろ。馬鹿にすんなよ」  心底腹立たしそうに黒狐は首を傾げた。 「でもっ、それは……し、仕方ないだろっ、お前が毎年量を増やしてくるから……」 「仕方ないだって? 君たちにとって俺はその程度だったってだけじゃないか」  揺れる大きな尻尾の横で、燃えていた家がどうと崩れた。熱風に思わず顔を覆った修造がまた目を開けると、狐は左右を見回しながら歩き去ろうとしていた。 「ま、待て!」 「嫌だよ。俺はもっと力をつけて、今度こそ大切にしてもらうんだ。美味くもなければ力にもならないガキなんかお呼びじゃないんだよ」  狐の後ろ脚に縋ろうとすると、また蹴とばされた。今度は鞠のように高く飛んだ修造は、道の真ん中に墜落した。かはっ、と口から息が漏れる。 「……まて……っ」  薄れゆく意識の中、煙の向こうに消えていく黒い尾に、修造は懸命に手を伸ばした。 (いつか、いつか絶対に――)  は、と修造が目を開けると、室内には燦々と朝陽が満ちていた。ぴちちちち、と開け放したままの襖の向こうから鳥の声が聞こえる。 「くそ、狐の巣なんかで寝たせいで、変な夢見ちまったじゃねえか」  起き上がり、寝乱れた襦袢の中に手を差し入れて背中を掻く。見下ろした手は、子供だったあの頃に比べて随分と大きい。 (いつか、殺してやると思ってたのに)  あの黒狐はどこへ行ってしまったのか、あれから杳として行方が知れなかった。きっとまたどこかの村に潜り込んでいるのだろう、いつか居場所を探って仕留めてやる。そう思って、鉄砲撃ちだった叔父に頼み込んで弟子にしてもらった。  それが何でこんな事になっているのか。結局使わなかった懐剣を枕の下から取り出し、弄びながら修造はため息をついた。寝込みを襲ってくるというのは杞憂だったようだが、そうなるとますます修造には狐の目的が謎でならなかった。  花嫁衣装を着せられた修造を嘲笑って楽しむでもないようだったし、かといって食べに来るわけでもない。すっかり化かされていて、起きたら墓場のど真ん中、という話でもなかった。昨日の狐の口ぶりからすると修造を指名してきたのも本当のようだったし、全く意味が分からない。 「ううん……」  まさか、本当に修造を娶りたかっただけ――なのだろうか。信じがたいが、そう考えれば狐の態度にも、昨日ぶん殴った時の悲しげな表情にも納得がいった。  修造はここまであの狐のことを「人を食べるために策を弄する嘘つき」と一方的に決めつけて勝手に怒っていた。化け狐とはそういうものだと思っていたからだが、こうやって落ち着いて考えてみると、どうもそれは間違いだったのではという気がしてきていた。  鹿や犬にだっていろいろな奴がいるのだ、狐にだって性格の違いくらいあるだろう。もしかしたらこの赤狐は、あの黒狐とは違うのではないだろうか。  もう一度あの狐と話して、確かめてみたいと思った。 「おい! おい狐! 出てこい!」  開け放した庭側とは逆の襖を開けながら修造は狐を呼んだ。踏み出した先は見慣れた部屋になっていて、 「ぎゃあッ」  潰れた蛙のような声に横を見れば、膳の前に座った貞宗が椀を取り落とすところだった。 「熱っああァァあうおぎゃっ⁉」  大急ぎのカニのように手足をばたつかせて後退った貞宗はそのまま土間へと転げ落ちていく。 「んん?」  なぜここに貞宗がいるのだ。見回すとぽかんと口と目を開けた叔父夫婦もいて、その後ろにある古びた障子に気づいた修造は、ようやく状況を理解した。  昨晩出てきたはずの、叔父夫妻の家に戻っているのだ。  首をひねりながら後ろを向く。いつの間にか豪華な布団も庭も消え、擦り切れた畳の見慣れた部屋があるばかりになっている。 「修造! い、生きとったんかい!」 「おそらく……?」  答えると、駆け寄ってきたトヨにべたべたと全身を撫で回された。 「ああ、本当、本当だ……よかったあ……なあ、修造、腹減っとらんか? 朝食……」 「いりません」  不在の人の分まで飯は準備していないだろう。だがその修造の言葉を打ち消すようにぐうと腹がなる。
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