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「言い訳にもならねえが……狐って奴は、みんな噓つきだと思ってたんだよ」
少なくとも昨日の修造は、もう二度と皆の顔を見ることはないだろうと思っていた。嫁にする、というのは偽りで、人間を食べたい狐の口実でしかないと思っていたし、それで狐の気が済むなら――自分が食べられることで村が無事なら、それで構わない、と腹をくくったのだ。
それなのに、目が覚めたら出戻りである。命があることはありがたいが、肩透かしもいいところだった。今生の別れをした親類たちに、これからどんな顔をして会えばいいのか分からない。はあとため息をついて続ける。
「でも、違ったんだろ、お前は。なんだってオレなんか欲しがったのか知らないが、とにかく人を食べたかったわけじゃないんだろ?」
昨夜聞こえた、きゅうきゅうという泣き声が修造の耳から離れなかった。小さな子が、物陰に隠れてすすり泣くような声。まさか修造に聞かせるためにやっていたわけではないだろうし、あの苦しげな様子は演技には到底思えなかった。
「なあ。顔くらい、見せてくれねえか」
しばらく待つが、竹藪はこそりとも音を立てない。会話くらいしてくれるかと思ったが、どうもそれは甘かったようだ。
その頑なな態度に、ああ、と修造の中に苦いものが広がっていった。きっと自分は、勝手な思い込みでこの狐を本当に傷つけてしまったのだ。
「……また来る」
そう言い残して修造は立ち上がった。許して欲しいわけではないが、一方的に殴りつけたまま終わりたくなかった。とはいえ今日のところは駄目そうである。また出直してくるほかないだろう。
ガサガサと山道をかき分けて歩いていると、不意に道の先に鹿が飛び出してきた。
「!」
大きな角が生えているところを見るに、三歳は越しているだろう。良い体格をした鹿だ。そろりそろりと修造が後退ると、牡鹿は不思議そうに首を伸ばした。
まるで、修造に撃てと促すように。
「おいおい……」
背負っていた銃を構えても、鹿は微動だにしない。照準器を覗き、狙いを定める。外すような距離ではない。
互いに微動だにせず、息を詰めたまま見合う。
だが、やがて銃口が震えだし、修造は構えを解いた。投げやりに明後日の方向に一発撃つと、ちょろりと白い尻をひらめかせ、牡鹿は木々の間へと駆け込んでいった。
はあ、と硝煙の匂いのする銃口を下げ、おそらく近くにいるだろう狐に話しかける。
「そういうのやめろよ……知ってんだろ、お前。俺が撃てねえの」
ちょうど去年の今頃、修造は一頭の雌鹿を撃った。さっそく首を切って血抜きをしていると、とことこと藪の中から小鹿が出てきた。子連れの鹿だったのだ。
ちょうどいい。こいつも撃って、一緒に肉と皮にしてしまおう。そう思って修造が銃を構えると、人を知らない小鹿は恐れることなく修造に近づいてきた。
小鹿なんて何頭も撃ってきた、はずだった。だが、その時はだめだった。感情の見えない黒い瞳に、「お前は私を食う気なのか」と聞かれた気がしてしまったのだ。
「それは、お前の母と妹を食ったあの黒狐と、何が違うのか」と。
鹿はそんなことは考えない。それは分かっていた。だが、修造の頭の中に一度浮かんでしまった疑問は消えず、それ以来修造は動物を撃てなくなってしまった。
罠猟に変えようか、とも考えたが、結局とどめを刺さなければならないのは一緒だし、あの黒狐を倒すために鉄砲撃ちになったのに、それができなくなった自分を認めてしまうようで抵抗があった。
虫は潰せるし、魚を〆るのも平気だ。他人が獲った肉もおいしく食べられる。それがさらに修造の情けなさを強めていた。
昔のことを思い出しつつ村の家がすぐそこに見えるところまで来た時、こぉん、と背後から狐の鳴き声がした。振り向くと、下ってきたはずの山道の真ん中に大きなザルが置かれている。近くの木の後ろから、炎のような尻尾が見えていた。
「あー」
戻って中を覗くと、案の定ヤマメとドジョウ、それからどうやったものかまだ時期には早すぎる柿や栗が入っていた。鹿の代わり、ということだろう。また来てよいと言われているようで、修造の心が少し跳ねた。
「どうも……気ぃ使わせたな」
だが、その嬉しさを表してしまうのはなんだか負けた気がした。低く言いながらザルを抱え上げ、まだ時折ぴくぴくと跳ねるヤマメを見ながら帰路につく。家の前で、向かいの権治(ゴンジ)の息子、正一(ショウイチ)が妹を背負っているところに行き会った。
「あれ、修造? およめに行ったんじゃなかったの?」
ぽかんとした顔をする正一に「出戻りだ」と唸るように告げる。
「でもどり?」
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