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夏の蝉、入道雲
修造(シュウゾウ)が縁側に出ると、ジジッ、と飛び立っていくセミが見えた。濃い青空に消えていく黒点の向こうに、村を守るようにぐるりと山がそびえている。一番高い山頂には炎のような形をした巨石があり、まるで火のついた蝋燭のように見える、というところから華燭山と呼ばれる山だが、今は山頂に岩はなく、皮でもめくれたかのように茶色い山肌が痛々しく露出していた。ちなみに、この山の麓にあるという理由から村の名前は燭台村という。安直にもほどがある、と修造は思っている。
縁側の角を曲がり、障子の開け放された部屋に入る。中では男が一人、薄い布団に寝かされていた。
「お呼びですか、叔父さん」
汗に引っ付く着流しの裾をさばきながら胡坐をかき、どかりと修造は叔父――宗二郎(ソウジロウ)の枕元に腰を下ろした。
「ああ……修造。お前に……ちょっと、頼みがある」
「はい、何でしょうか」
修造は身を乗り出した。幼くして親を失った自分を二十五まで育ててくれた叔父の頼みだ、断るはずもない。まして今は怪我の身なのだから、困ることも多いはずだ。力になれることだったら何でもする所存である。
「あー、おまえ、嫁に行ってくれんか」
「へ……は?」
だが、聞こえてきた内容はあまりにも予想外だった。修造は意表を突かれ、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「嫁……ですか? オレが? 嫁『に』行くんですか?」
どういうことだ。嫁を娶れ、あるいは婿に行けというのならば分かる。だが男である自分に「嫁に行け」とは。ああそうだ、と頷いた宗二郎は、はっきりした声で言い直した。
「修造、おまえ、狐に嫁入りしろ」
「……はい?」
更に意味が分からなくなった。修造がただ目を瞬いて黙りこくっていると、やがて宗二郎は諦めたように大きく息をついた。
「先だって山崩れに巻き込まれて、転げ落ちた時……ちょうど目の前に、炎岩が落ちてきていてな。パカリと割れたかと思ったら、中から燃えるように赤くて巨大な狐が出てきたんだ」
「はあ」
十日ほど前、地震えがあった。燭台村に被害はなかったのだが、その時、山頂にあった炎岩があたりの岩を巻き込んで崩落したのだ。猟に出ていた宗二郎もそれに巻き込まれたのだが、奇跡的に家に帰り着いて手当を受け、一命をとりとめていた。
「藁にも縋る気持ちで、儂はその化け狐に『助けてくれ、助けてくれれば何でもする』と頼んだわけだ。すると、狐は『わかった』と儂を家まで運んでくれて……『そいじゃ、修造を嫁にくれ』と言い残して消えていったんだ」
「……」
修造はもう何も言えなかった。炎岩には人を食う妖狐が封じ込められているといういわれを聞いたことはあるが、だからといって信じられる話ではない。きっと叔父は山崩れに巻き込まれた時によほど恐ろしい思いをしたか、あるいは頭を打ったかどうにかしておかしくなってしまったのだ。
どうしよう。膝においた拳の中が、暑さとは違う理由でべたつく。
まごつく修造を見上げ、宗二郎はニヤリと目を細めた。
「信じてねえな?」
「それは、まあ……」
そんな荒唐無稽な話、信じろという方が無理だ。曖昧に頷くと、動く方の腕を持ち上げて宗二郎は部屋の奥を指さした。
「儂だってなあ、気のせいか幻だと思ったんだよ」
座卓の上に大きな籠が置かれている。修造が覗き込むと、中には三尺以上ありそうな、化け物のようにでかいヤマメが二匹入っていた。その横にキイチゴやミズナ、フキが詰め込まれており、さらに笹、松、梅の木の枝が添えられている。山菜の間に挟まる紙に気づいた修造は、そっと手を伸ばして紙を引き出した。何やら書いてある。
「満月ののぼる頃、お迎えにあがり〼」
やや怪しげな字だが、そう読めた。
「これは……?」
紙を手に持ったまま修造が振り向くと、諦めたような表情の宗二郎と目が合った。
「今朝起きたら縁側に置かれてたんだ。結納品のつもりなんだろうな」
「……へえ」
もう一度紙に目を落とす。署名の代わりか、足跡がペタリと紙の端に捺されていた。狐のものだが、それにしてはずいぶんと大きい。
「まあ、そういうことだから。次の満月ってえと、来月だよな。その時までに準備しとけよ」
狐に嫁ぐのに、何を、どうやって準備しろというのか。嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、修造はただ頭を下げた。
「承知しました。……お話は以上で?」
ああ、と宗二郎の返答を聞いてから立ち上がる。
「申し訳ないな……堪忍してくれ、修造」
敷居をまたぐ時に聞こえた小さな声は、聞こえなかったことにして部屋を出る。ジジジジジ、と蝉の声が大きくなった。
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