遅い初恋

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 兄王の代理として戴冠式へ参加するイアンは本来、第二王子としての立場だ。大臣達から外交への従者として大臣二名と警備兵を従けられるところだったが、イアンはそれを一蹴して、お供を付けずに一人で帝国へ訪れた。万が一襲われたとしても自分で対処出来るからである。そして、イアンの今の装いは王族としての装いではなく軍服だ。彼が身に纏っている軍服は正装用の軍服で黒に極めて近い紺色の生地は金色のボタンと軍服の縁を飾るパイピングが良く映えていて、左胸に飾った四個のメダル型勲章がキラリと光っていた。この服装は口煩い大臣達への細やかな抵抗であり、皇帝への「いつの日か潰す」という宣誓布告でもある。 (いい加減、ここから去っても良いだろう……)  先程声を掛けてきた皇女は別の男と身体を密着して踊っている。その姿に吐き気がしてイアンは広間を後にした。 ♦  イアンは部屋に戻るつもりだったが、帝国の悪政を目の前で見たからか腹が立っていた。あぁいう奴らに兄上の爪の垢を煎じて飲ませたい――と苛つきながら足を進める。表情は能面顔のお陰で苛ついているように見えないが内面はそうではない。  少し頭を冷やそうと外に出て庭を散策する事にした。ゆっくりと歩き庭の花でも眺めようと思ったものの、広間から流れる音楽がどこまでもついて来て落ち着かない。  音楽から逃げるようにひたすら進んで行くと、今までとは違う雰囲気の庭に差し掛かった。  樹木が生い茂り、周囲は薄暗い。庭というより──森の中だ。しかし、まだ城内で壁の外を出ていない筈だ。例え、考えていた事がネロペイン帝国との戦争の話をすると逃げ腰になるサーレン将軍への苛立ちと、そんな彼にどう逆立ちしてもカリスマ性と実力で勝てない自分の不甲斐なさを考えていたとしても、流石に城の外へ出たら気付く筈である。 (ここだけ、整備されていないのか?)  派手に着飾る帝国が、この庭だけを忘れる事あるだろうか。  フト、花の香りがイアンの鼻先を掠った。自分の膝丈まで生えた雑草の中に埋もれて狭いながらも白いジャスミンの花が広がっている。この香りはあのジャスミンから香っているのだろう。 (不快感はない、いい香りだ)  先程まで通った庭に咲いていた薔薇の香りよりも、ジャスミンの甘い香りの方がイアンは好きだと感じた。それに、この香りは皇女達の香水の匂いを忘れさせてくれる。  あの香りを近くで嗅ぎたいと思ったイアンは、足をあの場所まで進める事にした。  雑草を掻き分けて、ジャスミンの目の前に辿り着くと、何かに躓いて危うく転びそうになった。もう少しでジャスミンの花の上に倒れるところだった、と安堵する。大きな石に当たったか、と足元のジャスミンをそっと掻き分けると──花の中で女の子が仰向けで倒れていて、イアンはギョッとした。  銀髪で髪色と同じ色の睫毛をした女の子。思わずその場にしゃがみ込んで、鼻の下に人差し指を当てると息が当たる。 (人形じゃなかった……)  良く目を凝らせば胸の上で結ばれた手が上下している。 (何故ここで寝ているんだ?) 「起こした方が良いか……?」  悩みながら顔をジッと見つめる。 (……動かない)  規則的に胸は上下しているが、若干肌寒さを覚える夜だ。こんな夜に外で寝ていては風邪を引いてしまう。  イアンは少女を起こす為に、少女の肩に触れようと手を伸ばした──パチっと眼が開いて、不意を突かれてしまいイアンは尻もちを着いた。  ゆっくりと身を起こす女の子の年齢はいくつくらいだろうか。  肩まで伸びたプラチナブロンドの髪は夜だというのに煌めき、パッチリと開いた琥珀色の瞳を縁取るのは髪色と同じ銀色の長い睫毛だ。そばかす一つも見当たらない透き通った肌に桃色の唇。指爪は綺麗に整えられてある。痩せ身ではある事は気になるが、イアンでも分かるほど顔立ちが整っている女の子だ。シルクの純白のドレスを着ているから、広間に居る貴族の娘だろうか。  少女と目があった時──イアンは美しさに息を飲んだ。  じーっと穴が空いてしまうほど真っ直ぐに見つめられ、己の汚さまで見透かられそうで視線から逃げるようにイアンは俯いた。  心臓が激しく脈打ち、息が苦しくなるほどの動悸だ。心臓が早鐘のように胸を突き、その痛みに耐えるように左胸に手を置く。掌に鼓動が伝わり、拳を作る。掌の中にあるメダル型勲章の冷たさのお陰でイアンは冷静さを保つ事ができた。 「こんにちは! どこか、いたいの?」  鈴を鳴らしたかのような可愛らしい声と同時に、目の前に影が差した。コテンと首を傾げながら幼女に顔を覗き込まれ、近距離で顔を見てしまう。  髪色と同じ睫毛は瞬きするたびに音が出そうなほどに長い。戦場でどんな相手でも怯まなかった男が、尻もちをついたまま後退った。
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