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イアンの義母、ジェシカはスェミス大国有数の侯爵家の長女の出で前王とは幼馴染であるものの政略結婚だ。にしては珍しく、ジェシカは恋愛主義者だった。それは、彼女の妹が関係している。ネロペイン皇帝から見初められる前、サラには恋仲の男性が居た。二人は身分違いのせいで父親から反対を受け、二人の仲は引き裂かれた。しかし二人は別れる事はなく姉と公爵家長男、つまりは義母上の兄の手を借りて駆け落ちを計画。それは必ず成功する筈だったが──悲劇が起きた。外交へ訪れたネロペイン帝国の皇太子、現在は皇帝の男に一目惚れされ、その場で求婚されてしまったのだ。それを知ったサラの恋人は帝国を恐れて逃げてしまい、二人は破局。傷心のサラは愛した男を忘れる為にネロペイン帝国へ嫁いでいった。
それから、俺の母が庶民という出で周囲から心無い言葉を投げられ、守り切れず、イアンの母が病んでいく姿に何も出来なかった事への後悔が関係している。息子達の結婚相手の身分が庶民でも反対はしない。心の底から愛し、守り抜いて欲しい── 母上の願いだ。それもあり、結婚相手は自分で探して良い、とされていたが、イアンは将来結婚をする気はなかった為、茶会や舞踏会へ一度も参加をしなかった。ジェシカはイアンの意思を尊重し強制する事をしなかったが、反対を押し切って軍へ入隊したイアンへ強制参加を強いた。このまま軍隊へいけば、何かに嵌れば最後まで追求するイアンの性格上どっぷり軍へ浸かる。それが原因で女性と一言も喋れない男が誕生するだろう──ジェシカはイアン本人よりも息子の事を分かっていた。
イアンは義母との約束通り、招待状を貰った茶会や舞踏会へ参加しているものの、出会った令嬢と、一言も会話を交わさなかった。女性との会話に慣れていなければ、将来苦労する──そうジェシカから苦言されていたが、そこまで重く考えた事はなかった。必要性を感じなかったからだ。
(しかし、今になって必要性を感じている……)
年端も行かない子供に、なんて話かけて良いのか分からない己を情けなく思っていると、目の前の少女が自分を見て嬉しそうにしていた。その屈託がない笑顔が、あまりにも可愛らしくて、ポカンと口を開けて見惚れてしまう。
先程まで、月光の中の少女は美しかったというのに、この笑顔は年相応で、可愛らしかった。
「わんちゃんにそっくり!」
「わん?」
コクリと頷かれて、イアンは狼狽した。
(わんちゃんとは、犬か? 俺が犬にそっくりなのか?)
狂犬とは言われた事はある。勿論、比喩だ。
「まっくろで、そっくり。おめめのいろもおなじ」
犬にそっくりだと言われ、ショックを受けるべきだが……嬉しそうに笑っている姿を見て、そのショックはどこかへ消え去った。少女の笑顔を見ると、不思議と胸が温かくなるのだ。犬と同じ毛色をしているから『わんちゃん』と呼ばれた事はとても小さな事だと思えた。
「犬が好きなのか?」
「くろいいぬをかってたの。でも、いなくなっちゃった……」
目の縁に涙の水滴が出来るのを見て、イアンは冷や汗が出て、慌てふためいた。敵に追い込まれて、大勢の敵軍に囲まれても慌てなかった男がである。とにかく、泣き止ませないと、とポケットからハンカチを取り出す。
猫のように大きな瞳から溢れる涙を拭うと、琥珀色の瞳が驚きで大きく見開いて、その瞳に自分が映り込む姿が見えた。幼女は黙ってイアンに涙を拭われている。
「わんちゃんも、わたしがないたらね、ペロペロしてくれた」
はにかんだ表情を見て、胸が鳴った。思わず胸に手を当てた。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫だ」
スーハーと息を整えて、イアンは頭を振った。
それから、息を大きく吸い込んだ。
「名前はなんていうんだ?」
生まれて初めて女性に名を訊ねた。
「なまえはおしえちゃダメなの。アンにおこられちゃう」
──出鼻を挫かれてしまう。
気を取り直して、質問を変えてそれが誰なのか訊ねた。
「わたしのきし」
「騎士ってあの騎士?」
「アンはね、わたしにきしのちかいをしたの」
「騎士の誓いを?」
コクリと頷いたのを見てイアンは更に首を傾げる事になる。
騎士の誓いはスェミス大国では寂れた風習である。今では叙任式といった形式的な形や、指輪を贈る時に貴婦人へ求婚をする時に行う敬礼だ。しかしこの帝国では違う。
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