遅い初恋

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「おいしそうな、リンゴ!」  無邪気な笑顔がここまで心臓を抉るなんて、知らなかった。 「俺は美味しそうか?」 「わたしね、リンゴもすき」 「俺も好き……?」  イアンは兄や義母から家族としての「愛している」と言われた事はあっても、女性から一度たりとも下心がない好意を受けた事がない。少女はイアンを「美味しそう」とも「好き」とも一言もそんな事を言っていないのだが、今のイアンには冷静さが欠けていた。  茹蛸のように赤くなったイアンは、後ろへ流した前髪をくしゃりと掴んで、顔を隠すように下ろす。これ以上、赤面した顔を見られるのは恥ずかしいと思った先のイアンの行動である。 (この帝国はいずれクーデターで滅びるか、他国との戦争で滅びる運命を辿るのはそう遠くない未来だ。ここに居れば、攻撃に巻き込まれてしまう)  親も見当たらないし……。  親から逸れた仔犬や仔猫ではないのだが……。  イアンは地面に蹲ったまま、本気で自分の国へ連れテ帰ろうか考えた。兄上や母上、将軍、重臣達になんて説明すれば良いかは、追々考えよう。 (俺には財力はあるし……まず生活に困らせる事はしない)  国へ連れて帰り、自分に与えられた屋敷の部屋を女の子が好むような部屋に改築し、メイドを少女の為に雇って、身の回りの世話をしてもらって、そうだ、ビーフシチューが得意なシェフを雇おう。  連れて帰る、すなわち誘拐にあたるのだが……。  この場所にロイドやジェシカが居たら、いつもと違う様子のイアンを見て彼の話を聞いてくれるだろうが、一人でネロペイン帝国へ訪れた為に残念ながら今のイアンの様子にツッこむ者は居なかった。少女を国へ連れ帰り、これからの未来をひたすら思い描いた。蹲ったまま独りブツブツと喋るイアンは、少女がイアンの前で両手を振り上げた事に気付かなかった。   両腕を振り上げて、パッと手を広げると、少女の手からヒラリと何かが落ちて――イアンの頭の上に落ちた。  頭上にパサっと音がして、イアンの意識はやっと空想世界から浮上する。  頭に触れると、柔らかい感触。頭上からヒラリと白い花びらが降ってきて、甘い香りが鼻先を掠った、ジャスミンの香りだ。  ゆっくり顔を上げると、黒い前髪の隙間から夜明けが見えた。 「おはなのかんむり」  「とってもおにあいね」と屈託のない笑顔。  イアンの脳裏に、少女が花を摘んでいた背中が思い出された。 「さっき、ジャスミンを摘んでいたのって……」 「わんちゃんにあげるため」 「俺の為……?」 「うん。よくね、わんちゃんにつくってあげてたの」    未だに犬呼ばわりだが、そこは重要ではなく、自分の為に花の冠を作ってくれた事が重要だった。   「ありがとう」    お礼を聞いて満足そうに少女は頷いた。  先程まで、少女を誘拐して国へ連れて帰ろうとしていた男は徐々に冷静さを取り戻して行く。国へ連れて帰れば、この子を大事にしている誰かが悲しむだろう……髪が絹のように美しい理由は誰かが少女を想いながら櫛で梳いていあげているからだ。肌がきめ細やかな理由は少女の為に香油を塗り、爪の形が綺麗なのは彼女の爪を磨いているからだ。目元を緩め、幸せそうに笑う事が出来るのは、愛され、守られているからだ――そんな子を連れて帰ろうとするなんて、どうかしていた。  少女に二度と会えないのか……と思うと、胸の奥がチクリと痛む。どうも自分の体調が芳しくない。イアンは国に帰ってすぐ病院へ行こうと思った。どうにも動悸が激しく、様子がおかしい。 (心臓より頭を見てもらった方が良いな)  ハッ、と自嘲気味に笑った――こんなの、自分らしくない。 (俺は、口数少なく、顏にも出さない男だが……言いたい事は言える男だったじゃないか)  いくら、創り物のように可愛いらしいナリでも、相手は子供だ。そんな子供相手に喋れない自分は、やはり今日は体調が良くないんだ。   「これはもらって良いのか?」 「うん」 「宝物にするよ」  花の冠は目の前の少女の方が似合うだろう。イアンは不意に、長い髪を靡かせて、花冠のベールを被った女性が脳裏に過った。  その光景がストンと胸に落ちたものだから、呆けそうになるも――またもや意識を手放そうとした自分の頬を叩いて喝を入れる。  スーッと長く息を吸って、 「どうして一人でここに居るんだ?」    いちからやり直そう。少女に訊ねたかった事を聞こう──……。 「アンがね、パーティはいっちゃダメだって。わたし、おどりたかったのに」  少女はスッと立ち上がって、ドレスの裾を握った。 「でね、きぶんだけでもあじわえるようにね、アンが、おひる、これをきせてくれたの」  そう言って、少女はクルリと回って見せた。
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