イアン・ジョー・グゥインという男

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 三十歳を迎えるイアン・ジョー・グゥイン公爵は自身を「世界一幸福な男」だと自負していた。  彼は五年前、生まれ育ったスェミス大国と軍事国家ネロペイン帝国との長きに渡る因縁に終止符を打った英雄だ。スェミス国王ロイドの腹違いの弟であるイアンは王族の血を継いでいながら最前線で戦う勇敢な軍人だった。  イアンが二十四歳の頃、ネロペイン帝国の悪政と戦う革命軍に近付いて、彼らを仲間に取り込んだ。  カイロ領──スェミス大国とネロペイン帝国との境目にあるネロペインの領土である。体が動く者は性別関係なくスェミス大国との戦争に駆り出され、残った者は身体が不自由な老人のみ。赤子はもう何年も生まれていない。運良く生まれても飢えて死んでしまうかろくな治療を受けられないせいで風邪をひいただけで死んでしまうのだ。領主と言えば迫ってくる敵軍に身を隠し屋敷から一歩も外へ出てこなかった。ネロペイン帝国の援軍と共にスェミス大国と戦争を繰り広げる羽目になった領民達。長きに渡りネロペインの悪政と領主の贅沢の為に搾り取られ痩せ細ったその場所は両国との国境地であるせいで領民達は戦争に巻き込まれた──否、巻き込まれる筈だった。彼らが向けた剣先はスェミス大国ではなく──カイロ領の悪徳領主だった。そしてネロペイン帝国から送られた援軍は自国に見切りをつけた帝国軍の兵士達が紛れ込んでいた。   それからネロペイン帝国は王族ともに滅び、甘い汁を吸っていた貴族は処刑された。新しい王は辺境伯へ婿養子に入ったネロペイン皇帝の腹違いの弟だ。彼は、革命軍を率いた人物だった。歴代の皇帝達とは違い、温和でありながらも武勇に優れ、知略に長けている。新皇帝は国民達と共にスウェミス大国の力を借りて復興に向けて頑張っているところだ。  ──という物語は話せば長くなるので割愛させてもらう。早い話、今は平和である。  そんなイアンは今、国軍で働いていると言っても、籍を置くのは国軍経理課のヒラ事務官だ。  イアンは長きに渡る因縁を終わらせた英雄であり、スェミス大国の第二王子。五年前、終戦後、ロイドは功績としてイアンに将軍の要職を与える筈だったが──彼が望んだのは、現妻オリヴィアと少しでも……いや、長い時間一緒に過ごせる時間だった。その為にはいくら平和の世になったとしても将軍なんてもっての他である。  よって、イアンは二十六歳の頃、腹違いの兄即ち国王のロイド・フェス・リジェットが玉座の間で将軍の地位を与えるという言葉を遮った。 「愛する妻と過ごす為、家を留守にすることは避けたいです。命を脅かすような事も避けたい。もし、私に何かあれば妻を一人にしてしまう。そこで、私は今後内勤の職へ就きたいと思っています。例えば、事務とか。事務が暇だと言っている訳ではありません。しかし、週末は休めて、長期休暇取りやすいのは、事務職。残業もなく直帰できるのは、事務職。俺はこれからペンで兄上を支えます」  と。  澄んだ瞳でそう言い放ったのである。戦争での功績を讃える場で、周囲には多くの貴族や大臣達が玉座の間に集まっていた。普段、無口で能面のような男が澄んだ瞳をしながら笑みを浮かべ、ハキハキと喋る姿を見て、どよめきが起きる。ロイドもまた戸惑っていた。王座の前に膝を付いて自分を見上げる弟の表情が、大好物のショートケーキを前にした時、一瞬だけ見せる笑顔だったからだ。その笑顔がこんなに長く続いているなんて、いつ振りだろうか……。 「兄上。わたくしに、事務官という職を与えて下さるんですよね? その謁見ですよね?」  ──違う。全くもって、違う。弟に与えようとしているのは、公爵デュークという称号と将軍という階級だ。軍事的に戦果を上げた功績としての爵位とイアンが長い間目指していた国軍の将軍という要職を褒美で与える手筈だった。  だったのだが。  そして、エリオット・サーレンは将軍の座を退いてもらい、辺境伯の称号とカイロ領を与え、カイロ領の新たな領主として両国の境目を防衛する役目を担う筈だった。それはサーレン自身が望んだ事でもある。しかしイアンはそれを全て笑顔で覆した。 『事務官しかあり得ない』  有無を言わぬ笑顔の圧。  この時、イアンは愛する妻とは言っていたが、独身だった。そしてその相手が誰かも分からずに周りは混乱したのだが……結婚相手が亡きネロペイン帝国最後の皇帝の妻、サラの一人娘。  サラはスェミス大国の王太妃ジェシカの双子の妹で、オリヴィアはジェシカの姪にあたる為に、その結婚を反対する者は誰一人居なかった。  彼女が憎き皇帝の娘であっても、彼女は長い間母親と共に皇帝から酷い仕打ちを受け、彼女の護衛と共に助けを求めてスェミス大国へ亡命してきたのだ。それによって、イアンの怒りを買った帝国は、彼女に恋をしたイアンに滅ぼされたと言っても過言はない。  ロイドは可愛い弟の頼みを聞き入れて、将軍の地位ではなく公爵デュークという称号だけを与え、国軍経理課の事務官としての異動を命じたのだった。これで、イアンは定時で帰宅が可能、週末休み、長期休暇取得可能の事務官として働くことができている。  愛するオリヴィアと幸せな結婚生活も明日で四年目。勿論、明日は有給を取っているし、今日は仕事を早く切り上げて妻が待つ邸へ帰る予定だ。  ウキウキな気持ちで最後の領収書一枚に目を通し、ミスは確認されなかったことを確認して、印鑑を押す。それを隣りに座る同僚のシェルフに渡した。 「後は頼んで良いか?」 「いいぞー。ボスに出しとく。結婚記念日、楽しく過ごせよ」  ニッと笑い「勿論」と答えたイアンは、軍服の上に外套を羽織る。  羽織っている姿も絵になるなーとシェルフはそう思いながら、イアンに手を振った。  ──それを裂くように、荒い靴音が近付いてくる音が聞こえた。その音があまりにも慌てた様子だった為、経理課の人間全員が顔を上げて見合わせる。イアンも例外ではなく、手にしていた鞄をチェアの上に置いた。  戦争が終わり、廊下を慌てて走る軍人は居なくなった。平和の世で上長に緊急に伝えるような用件がないからだ。その足音が経理課の前で止まったと思えば同時に扉が激しく開いた。そこから転がるように入ってきたのは燕尾服を着た若い男だった。 「ジェスじゃないか。どうした?」  彼はイアンの邸の執事ジュレックの一人息子、執事見習いだ。  ハァハァ呼吸をしながら膝を折って項垂れているジェスの元にイアンは駆け寄った。シェルフもまた「大丈夫か?」とジェスに近寄って彼に水を渡しす。普通ではない状況に経理課全員が彼を心配して近寄った。 「お、おおおお」  シャツは汗まみれで、髪の毛が汗のせいでペチャンコである。ジェスはうまく言葉を発せられず、ずっと吃ってばかりで上手く言葉が発せられないようだ。 「大丈夫か? 何かあったのか?」  只事ではない様子に、イアンは腰を下ろしてジェスを心配した。職場に来た、というのはよっぽどの事があった、という事だ──……。  シェルフから貰った水をゴクゴクと飲んで喉を潤してから、ジェスは震えながら隣に腰を下ろした雇い主を見た。 「父から至急のようけ、んのこ、言伝を、たのまれ……馬はし、らせ、グェイン公爵家のつか、い、だと、言って、軍基地に入る事をゆる、されました」 「それはいいから……何かあったのか? まさか……オリヴィアの身に何かあったのか?」  ジェスの顔色が真っ蒼に染まる。それを見てイアンは息を呑んだ。    今朝、オリヴィアに直接「愛してる」と言えていない。この言葉は、彼女と結婚して毎朝欠かさずに伝えてきた言葉だ。  そして、「行ってきます」も言えなかった。毎朝欠かさず伝えている事を、オリヴィアをゆっくり寝させる為、という理由で──……。  ドクドクと鼓動が早い。思わず自分の胸を掴む。言葉を発せずにいると、ジェスは息を吸い込んで──声を上げた。   「お、お、奥様が家出をされました……!」  
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