遅い初恋

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 サーレンは王太后を思い浮かべた。ウェーブがかかった茶色い髪に、海のように碧い瞳、おっとりとした口調で物静か、家族愛が強い女性だ。自分の血が一滴も入っていないイアンを本当の息子と同じように愛し、可愛がっている事は誰もが知っている。彼女は自分の懐に入れた人間は階級関係なく愛し、守る女性だ。  サーレンの睫毛が目下に影を作り、琥珀色の瞳が寂し気に歪んだが、それはほんの一瞬だった。いつもの柔和な顔つきの彼がそこに居た。 「良し」と呟いて、サーレンはテーブルに溜まった書類を一枚手に取って、事務作業に没頭する事にしたのだった。 ♦ ♦ ♦    ネロペイン帝国から自国へ帰路へ着く途中、胸の痛みと睡眠不足にイアンは苛まれた。  イアンは国へ着いたその足で医者の元へ診察に行ったものの──診断の結果「健康そのもの」「むしろ健康過ぎる」とまで言われた後に、医者から鎮痛剤と睡眠薬を処方された。 (薬に頼るのは正直癪だ)  十七年生きてきて風邪一つ罹った事がないイアンは、医者から健康だと太鼓判を押された身体に薬を投与したくはなかった。胸の痛みは、指に刺さった針の痛みのようにすぐに過ぎ去るものだったし、我慢すれば良いと己で判断をした。しかし睡眠は違う。充分に睡眠をとらなければ任務に支障をきたし、判断力も鈍ってしまう。だからイアンは──身体を鍛える事にした。身体が疲れれば、眠りに落ちやすいだろうと考えたのだ。本部に設置されたジムトレーニングでひたすら己の肉体と精神を鍛え続けた。結果は──強靭な肉体を手に入れ、体脂肪率が下がり、今以上に疲れを知らない男となってしまった。どんなに身体を動かした所で眠気が襲ってこないのである。  そもそもイアンは、有り余る体力のお陰では眠らなくとも問題なかった。  それが、どうも自分の周囲が騒がしい──。 「イアン、何か悩みでもあるのか?」 「ユング中将。悩みとは?」 「ここ最近悩んでいる様子だ」 「至って普通です」 「普通……そう、そうか、普通か」 「気にしないでくれ」と言った割りには、納得していない様子でブツブツと去って行く。  また別の日は、   「イアン少尉、サーレン将軍に何かお話したい事があるのではないですか?」  そう声を掛けてきたのは、サーレン将軍の秘書、レオナルドだ。  レオナルドは、軍の人間ではなく元は弁護士。サーレンに陶酔して、彼が将軍になったと同時に彼の秘書となったのは有名な話である。小麦色がくすんだような金髪を赤いリボンで一括りにした彼は、神経質そうな顔立ちだ。右目にモノクロを掛けた翠色の瞳でイアンを詰めてくる。 「何もないですが」 「本当の本当ですか?」 「嘘を言ってもしょうがありません」 「取り付く島もないですね」とレオナルドは納得いかない表情だ。  話があるとすれば、いずれ俺は自分の力で将軍になりたい決意表明とネロペイン帝国への制裁戦争への相談だが、サーレン将軍命の男に前者を言えば事を荒立てるだろうし、後者に関しては今は強く思ってはいなかった。ネロペイン帝国の城内の荒れ果てた庭で出会ったあの少女の身の安全を思うと、制裁戦争など起こせない。まして、あのまま放置していれば滅びる運命を辿るのは分かりきった事なんだが、どうにかして、あの子とあの子の家族だけスェミス大国に亡命させられないだろうか……。 (最後に名前をもう一度訊ねても教えてくれなかったし、家まで送ろうとしたら断られた。見送ろうとしたら) 『おうちは、おしえられないから、おみおくりもしないで』  と言われてしまい、なぜか俺が見送られた……。あの子は俺が見えなくなるまで、ずっとあの場所で手を振ってたな……。 (無事に家まで帰れたんだろうか……帰り道、変態に襲われてないだろうか……無理矢理にでも一緒に帰るべきだったんじゃないか……?)  もし、自分の知らない場所で怪我をして、最悪の場合命を落としていたら――……。 「――イアン少尉!」  ハッ、としてイアンは目の前に立つレイモンドを見た。翠色の目が心配そうにこちらを覗いている。 「顔色が悪いですが……大丈夫ですか?」 「すみません、大丈夫です」 「しかし、大丈夫と言えるような顔色ではありませんよ」 「考え事をしていただけなので」とイアンは姿勢を正し、これ以上何も言うなと言うように、首を振った。レイモンドは何か言いたげではあったが、諦めたのか去って行く。  その他にも物言いたそうな顔だったり、心配そうにで見てくる同期や後輩達、上官達を訝しく思い、彼らに視線を巡らせると瞬時に背を向けられた。普段から避けられてはいるが、あからさまに避けられるのは初めてだ。正直言えば、気分が悪い。
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