結婚記念日 二日前

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「お帰りはいつになりますか?」    イアンは広い屋敷の玄関ホールで妻のオリヴィア・リー・グウィン公爵夫人からおずおずと訊ねられ、彼女を見下ろした。  琥珀色の瞳とパチっと合うと咄嗟に目を逸らされる。シルクのような美しい髪と同じ色をした銀色の長い睫毛が微かに震えているのがイアンの視界に入った。 「いつもと変わらない時間に帰るよ」  もちろん、と付けくわえると「そうですか」と短い返事。 「君と少しでも長く過ごしたいからね」とイアンが言うと、オリヴィアは俯いて「そうですか」と答えた。それから、すぐに顔を上げて、 「明日は何時頃に帰りますか?」 「明日は早く仕事を切上げるつもりだよ。前日に記念日の確認をしておきたいんだ。抜けがあっては困るし」 「では明日は何時ごろに寝ますか?」 「早朝、ジョギングをするつもりだから、いつもより早く寝るかな……」 (本当は仔犬を受け取りに行くんだが……オリヴィアには悟られないようにしないと)  なんせ、驚かせたいが為に犬が欲しいと言ったオリヴィアの願いを一度無下にしている。その時は、オリヴィアの傷付いた表情が夢にも出てくる羽目になるとは思いもしなかったが……当日の朝、オリヴィアの喜んだ笑顔が悪夢を忘れさせてくれる筈だ。   「じゃあ──記念日の夜はいつ頃お休みに?」 「記念日の夜は、例年通り……」  質問の意図が分からずもオリヴィアからの質問にイアンは丁寧に答えた。しかし、オリヴィアと言えば何故か歯切れが悪く「そうですか」としか言わず、どこか上の空だ、何か言いたげなのは見て分かる。なんせ、オリヴィアの挙動を何一つ見逃さないように、屋敷内で目で追っている男なのだ。    「何かあったか?」 「なにも」  と言う割に何か言いたげでオリヴィアの目はキョロキョロと右往左往する。唇は言葉を紡ごうと小さく震えるも、すぐキュッと閉じる。微かな隙間から見える白い歯と時たま覗く舌が妙に官能的だ。唇が震える、閉じる、震える、閉じる、震え──……。   「ゴホン!」  わざとらしい咳払いがして惚けていた表情をイアンは引き締めた。横目で見ると二手に分かれて立つメイドの一人と目が合った。アン・マスコットだ。彼女はオリヴィアの護衛を務め、帝国ではなくオリヴィアに騎士の誓いをした人物だ。  オリヴィアの為に騎士になった彼女は、母親を亡くした彼女をずっと守り続けた。それでも限界があり、オリヴィアを連れてこの国へ逃げてきた。オリヴィアとイアンの結婚を機に騎士を自ら辞してオリヴィアの専属侍女となった人物である。燃えるような赤い髪を一括りに結び、頭上高くに纏めている彼女は元騎士と言うのもあって姿勢が良い。  アンのオーラはメイドそのものではなく、武人のようなオーラだ。女性陣の中で最も背が高く、アンの隣に立つメイド長よりも威厳がある──と言うのも俺を射殺すような目で睨んでいるからそう見えるのかもしれない。 (いつもの事だから慣れたが)    アンは無事にネロペイン帝国から脱出をしオリヴィアとスェミス大国へ逃亡してきたものの、オリヴィアを安全な場所へ隠し、自らスェミスの首都へ足を運んだ。オリヴィアの叔母ジェシカ王太后に保護して貰おうと考えたのである。しかし、首都に足を踏み入れた瞬間、軍人に捕らえられた。運悪く、イアン将官に。  イアンと言う男は、自国に無断で足を踏み入れた人間に容赦ない。アンがただの一般人なら保護したが、彼女は武装しており彼女が持っていた剣の柄に帝国の紋章が彫ってあった。それだけではなく、アンが持っていたハンカチの刺繡が帝国の辺境にある、マスコット家の紋章だったのである。皇帝の腹違いの弟の末の娘が、何故国境を越えて侵入したのか──イアンは理由を聞く為に口を割らない彼女を牢屋にぶち込み詰問した──。結果、右腕を骨折させた。 (俺がちゃんと話を聞かなかった事は悪いが……あの時の事を許して貰えてない)    アンとイアンは同じ歳だ。年齢だけではなく、オリヴィアに対する愛情と忠誠心は形は違えど、二人の重さは同じである。  アンはイアンとオリヴィアの結婚を最後まで反対した。因みに今でも許しておらず、二人を夫婦と認めていない為、アンだけはイアンを『旦那様』と呼ばずに『イアン公爵様』と呼び、オリヴィアを『奥様』ではなく『お嬢様』『オリヴィア様』と呼ぶのだった。 『死んでも許さない』という彼女の抵抗の一つでもある。  そんなアンをオリヴィアの傍に置いているのは、オリヴィアが彼女を絶対的信頼している事、そして、オリヴィアの最高の騎士だからだ。 (俺の方が最高で最強だがな)  あくまで俺が留守の時が、って意味だ。    フッ、と鼻で笑いアンにマウントを取ってしまう。
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