結婚記念日 二日前

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『万が一、帝国派が生き残っていれば、唯一の皇族の生き残りであるオリヴィアを政治的に利用しようとする輩が出てくる筈だ。それを阻止するには君一人では役不足だ』  穏やかな口調で紳士的な態度だというのに、人の心を抉ってくる有無を言わせない男の発言でアンは渋々、イアンとオリヴィアの結婚を許した。彼が言う通り、自分一人の力ではどうしようも出来なかった。 「あいつの金から私たちの給料を払っている訳ではないのに、何故、奴の事を旦那様と呼ばなきゃならないのか、とも思いまして」 「何を言うの。グェイン家のお金はイアンの給料から、イアンの不動産業からの収益とかから支払われているのよ」 「元を辿れば、そのお金は国のお金ですよね? 公爵様の給料を払っているのは国軍で、国軍の予算は国と議会が決定してますよね? 地代はイアンのお金ではなく住んでいる住民のお金であって、不動産業の収益だって元は公爵様のお金ではないんですし、それに王族として国から支払われる収入もありますよね? 私たちは公爵様からではなく、国と住民からお給与を貰っているんです。感謝するならスェミス大国国王と国民です。それに公爵様は王家の人間ですから税金を納めなくて良いですからね。なんの苦労をしていると言うんですか」 「それをターニャに言ったのね?」 「はい」  しれっと言ったアンの手は落ち着いたままだ。変わらずにオリヴィアの髪を優しく梳いていた。   「私はあの男を、『旦那様』なんて呼びませんよ」  オリヴィアは息を吐いた。   (二人とも同じ波長だと思うのに、どうして水と油のような関係なのかしら……?)    同族嫌悪、という単語があるが、イアンとアンはそういう類である。二人ともオリヴィアが幸福でいる事が一番だが、どうも「どちらがオリヴィアを想っているか」マウントを取るせいで上手くいかないのだ。 「本当に、あの男に告白をするつもりですか?」 「えぇ、する」  鏡越しのアンは眉を寄せていた。それから、櫛を置いてオリヴィアの両肩に手を置いて、真っ直ぐにオリヴィアの目を見た。 「私は反対です」 「アン」 「あの男の金を吸い取るだけ吸い取って、傍にいるだけでは駄目なんですか?」  イアンへの気持ちに気が付いた時、真っ先に相談した相手はアンだった。  アンは私が傷つく事は許可を出さない。イアンに想いを伝える事で、私が傷つくと思っている。 「私は、傷付かないわ」 (信じるって決めたもの……揺らいではしまうけど、でも信じるわ) 「オリヴィア様は、告白した先に待つ"何か"の事を考えておいでですか?」 「"何か"? 何かって?」  分からない、と首を傾げるとアンはハッキリと告げた。 「セックスです。あの男は獣のようにお嬢様を襲います。間違いありません」 「イアンはそんな人じゃないわ!」  オリヴィアは頬を染め、思わず振り返ろうとするもアンから後頭部を固定されてしまって身動きが出来なかった。鏡に映るアンに視線を送った。 「男とはそういう生き物です」 「イアンはそんな人じゃないわ、だって、私と一緒に寝ても、彼の手が上にも下にも移動した事なんで一度もない。私のお腹の上でいつも固定されているの」  彼と腕を組んで歩いた事はある、結婚式でダンスを踊り、身体が密着した事だってある。手を繋いで歩いた事だってある。手繋ぎも指を絡めるものではなく、掌同士を合わせて繋ぐシンプルなものだった。一緒のベッドで抱き締めて眠ってくれて、身体は密着していても、自分の身体を擦り付けてくるような事は一切しない。結婚式の誓いのキスだって、イアンは唇ではなく、私の額に唇を落とした。その日以外、彼の唇が、私に触れた事は一度もない。  彼から性的な事を一度だって受けた事がなかった。  それでも、アンは疑っている。 「イアンは私を傷付けることは絶対にしない」 「でも、奴は男です。そういう生き物です」 「イアンは」違う、と言葉を続けようとすれば、アンはそれを遮った。 「オリヴィア様が()()分かっていますよね」  ヒュッとオリヴィアの喉が鳴った。彼女は無意識にレースで隠された首に手をやり、喉元を力強く締め付ける。過去の傷に触れ、これを目にする度に、あの記憶が鮮明に蘇る──綺麗な思い出まで黒く塗り潰してしまう程の。 「申し訳ございません、オリヴィア様……失言でした」  鏡に映るオリヴィアの顔色が青褪め、唇まで青く色を変えているのを目撃して、アンは自分の失言に顔色を失くした。  更に謝罪の言葉を述べ、床に跪こうとしたアンをオリヴィアは止めた。肩に置いたアンの手に触れて、首をゆっくりと左右に振った。 「……大丈夫よ、アン」
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