結婚記念日 二日前

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 顔色がまだ青いままのオリヴィアはどう見ても平気には見えなかった。それでも彼女は「大丈夫」としか繰り返さない。 「昔のように悪夢は見ないから」 「私の髪を編んで」と、ニコッと微笑んだ笑みは弱々しいものだったが、これ以上謝罪を続ければ更に暗い出来事を思い出させてしまうかもしれないと、アンは再度櫛を手にとってオリヴィアの髪を梳く。 「……今日は髪を高く上げましょうか。外は暑いですから」 「少しでも涼しくなるように」とアンは白銀の髪を器用に頭上で高く結んで、シニヨンスタイルにした。横から流れる前髪が色っぽさを演出する。  オリヴィアは満足したように笑った。アンもそんなオリヴィアを見て、「お似合いです」と笑みを浮かべた。顔色が若干戻ったようでアンは胸を撫で下ろす。 「まるで、女神が地上に降りて、下層の人間達を慈愛に満ちた目で見つめるような、お佇まいです」 「フフッ」と吹き出したオリヴィアが、あまりにも綺麗に笑うから。  アンは目頭が熱くなり、涙の跡を頬に残さないために、俯いた。    アンは心の中で理解していた。  オリヴィアが今こうして穏やかに過ごせているのは、大嫌いなあの男のお陰だと……あの男が、オリヴィア様を昔のように、笑う子に戻したのだ。  昔、自分の手だけで守れると思った。それはただの傲慢で、いつしか、オリヴィアが人質ではなく自身が人質になってしまい、立場が逆転された。 『お前の騎士と離されたくなければ、言う事を聞きなさい』 『この白髪を庇ったりしたら、二度と騎士になれないようにしてやるわ』  それを何度無視して、あのクソ皇女たちと母親達を殺そうとしたか分からない。でも、ここで手を出してしまえば、誰がオリヴィア皇女を守るのか、という葛藤が生じた。奴らを殴れば気は晴れる。でもそれは一瞬で、その後永遠にオリヴィア皇女の傍に居る事は出来なくなる。 『絶対に何があってもあの子の傍を離れないでね』  生前に私にそう言ったのはサラ女皇だった。  私が少しでも助けてしまえば、この約束は破られる事になってしまう。  例え、父が皇帝の弟でも、嫌われて辺境伯に婿入りさせられた父の立場は弱く、それ同様に私の立場は弱かった。守り抜くと息巻いて、彼女の騎士になっても、完璧に守り抜く事は出来なかった。ただ影のように傍に居ただけ。  あの男なら、自分の身分を最大限に利用して守っただろう──私にはない身分だ。辺境伯という身分よりも高い、第二王子という身分。  あの男なら、オリヴィア様があの日あいつにされた事を防げた筈だ。私は、防ぐ事が出来なかった。ただ、あの悲鳴を聞いただけ──……。    それでも、オリヴィアはイアンという男を信用できなかった。  イアンの本性は凶暴だ。いくら国の安全の為とは言え、本人から直接痛めつけられたのだ。その矛先がいずれ、オリヴィア様に向かいはしないかとアンは恐れた。  それがいくら、自分の任務だからと言って、身内には向かない、とかそんな器用な人間、この世に存在しない。他の人間に出来るのだから──誰にだって出来る筈だ。その矛先がもしオリヴィア様に向くような事があったら私は、あの男を殺す。    それが、サラ女皇との約束を反故してしまう結果だとしても。  今度こそオリヴィア様を救う為に。 ♦︎ ♦ ♦  イアンの覇気のなさは周囲が心配するレベルだった。  だからと言って、仕事が疎かになっている訳でもなく、書類は凄いスピードで捲られ、各部署から預かった領収書を元に作られた出納帳の記載は正しい。むしろ陸軍第二部隊で不明瞭な領収書があると気付いた程である。  手は動いているのに、目は明後日の方向を向いていた。手元を一切見ていないのに計算に狂いがない事にイアンの隣りに座るシェルフは恐怖を覚え、小鹿のように震えた。  国の英雄、国王の腹違いの弟、王位継承権はまだ放棄していない、そんな男が何を思ったのか、国王の前で「事務官になりたいです」とか言ったお陰で、英雄が国軍経理課へ異動してきた。  彼が陸軍兵士の頃の姿を知っている為、軍人は軍人でも事務官は体育会系というよりも、文科系だ。体育会系筋肉男が経理課へやってくる事に恐れ戦いた。──が、イアン初出勤で全員に挨拶をする姿を見て、思ったのだ。 『ふつうに、イケメン好青年じゃね?』  陸軍兵士の頃は話し掛けにくいオーラだったにも関わらず、イアンの雰囲気は柔らかくなっていて、取っつき難さはなかった。しかも優秀で、仕事が早い。コミュニケーションはそつなく取れて、女性の扱いも上手だった。ガサツな男が多い中、サーレン将軍の次にイアンは紳士的だった。
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