結婚記念日 二日前

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 将軍の座を退いて、辺境伯の称号を授かりカイロ領の領主となって国を出て行ってしまったあの方が憎い……玉座の間で褒美として受け取って、「陛下の命令だから」と、颯爽と国を出て行ってしまわれた……。 (平和の世になったのは喜ばしい事だが、書類は見たくない)  そう思いながら机に額をぶつけていた所にイアンはユング将軍の執務室に入った。 「……ユング将軍、お忙しいでしょうか?」  敬礼したイアンにユングは上半身を机から戻し答礼をした。 「別に構わんぞ。暇だから」  机の上に列をなして並ぶ大量の書類はどう見ても「暇」には見えないのだが、イアンは気にする事はなくユングに促されるままソファへ腰を下ろした。 「明後日結婚記念日だったか? ターニャがその準備でイアンの所に寝泊りするんだったな」 「はい──。ユング将軍。ターニャにはいつも感謝しています。うちのメイド達をしっかり束ねて下さっていますし、仕事にそつがない」 (それに加えて俺を片手で放り投げる事が出来る腕力は素晴らしい)  イアンが本心でそう述べるとユングは白い歯を見せて笑った。自分の妻を褒められるのは嬉しいものだ。 「(ターニャ)が褒めてたぞ。イアンの屋敷は前の屋敷より働きやすいと」  ターニャがグゥイン公爵家で働く前の侯爵家は、夫婦仲が悪く夫婦そろって使用人に当たり散らしていた。お陰で使用人達は長続きしない中、鋼の心臓を持つターニャだけが辞めずに残った。彼女は今と変わらず自分の仕事を淡々と完璧に行い、いつしか夫婦から重宝される。「こんなに尽くしてくれるメイドはいない」と。単に──報酬が高かったら辞めずにいただけで雇い主への尊敬と報酬を割り切って働いていただけである。そんなターニャの元にグゥイン公爵家から直々にスカウトされた。それもメイド長という役職で破格の報酬を払うという。勿論、そっちへ転職するに決まっている。そのスカウトにターニャは二つ返事をして、十五歳の若奥様と王弟からの旦那の元部下からの国の英雄からの国軍事務官公爵の邸のメイド長へなった。  そんなターニャは自分の勤め先の醜聞は決して語らない。雇い主がどんな人間にせよ、それを口にしては雇い主と信頼関係を築けないからだ。だから、ユングは一度たりともターニャの口から勤め先の話を醜聞にせよ誉め言葉も聞いた事がなかった。それがグゥイン公爵家の話は何度も耳にする。全部が誉め言葉だ。報酬が高いだけではなく、それほど働きやすい環境なのだろう。  イアンは、ターニャがユングに「働きやすい」と話している事に少々面食らった。自分が言うのもなんだが、ターニャは表情が豊かではない。朝の玄関でオリヴィアに見惚れて仕事へ向かわない俺に対して乱暴な手で馬車に放り込まれたのは実は一度や二度の事ではなかった。 (俺の事を頼りない旦那様だとか思っているとばかり)  働きやすいという事は、その屋敷の雰囲気が良いという事だし即ちオリヴィアとの夫婦仲は一番近くに居る使用人の目から見て悪いように思われていないという事だ。自分が雇っている人間に「働きやすい屋敷」だと褒められる事はどうやら嬉しい事らしく、頬に少しだけ熱を感じたイアンは誤魔化すように咳払いをした。それからイアンがユングの執務室へ訪れた本題へと入る事にする。  イアンはシェルフに話した同じ内容をユングへ話した。今朝のオリヴィアの様子に、オリヴィアに喜んでもらう為に何を参考にしたら良いか──。 「犬なんですが……実は犬をサプライズの為に用意していて。当日、プレゼントをしたら、彼女の気持ちが落ち着くかなと思うんです」 「ふむ」 「今朝の様子は俺のただの勘違いだった、ってなるじゃないですか」 「ふむ」 「でも、先程シェルフから『貢ぎ物は餌付けと変わらない』みたいな事を言われました。確かに物で釣るような行為は良くない、彼がいう事は一理あると思って、貢ぎ物をせずオリヴィアに喜んでもらいたいのですが、俺は何を参考にしたらよいでしょうか?」 「ふむふむ」 「──ユング将軍、訊いておられますか?」 「ふむ! 聞いている!」  そう叫んでユングは両膝を叩いた。  ただ頷いているだけのユングをイアンは訝し気に見つめたが、「聞いてるって」と笑う。彼が笑窪もなくこうやって笑う時は話を誤魔化す時だと陸軍時代に長い間彼の部下だったイアンは知っていた。   「私は真剣に悩んでいるんです。結婚生活が長いユング将軍にご教授願いたく」 「ちゃんと聞いてるって! イアンの嫁さんが、今朝言いたかった事は犬の事じゃないと俺は思うぞ」 「なんだとお思いですか!? 私はそれくらいしか思いつかないんです」 「教えても良いが」  急に真剣な面持ちになったユングにイアンは身を乗り出して、ゆっくりと頷いた。
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