結婚記念日 二日前

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 イアンの頬の感触は私と違って固かった。だからと言って嫌悪感はなかった。 「あら?」  ハンカチを頬から話すと──何故だか余計に汚れが広がってしまった。  首を傾げてその汚れを見ると、イアンもまたある事に気が付いた。オリヴィアの頬が土で汚れているのだ。 「オリヴィア。君も頬が汚れているよ」  イアンもまたオリヴィアの頬を自分が持っていたハンカチーフで拭いてあげる。頬の感触が柔らかくてイアンの心臓は痛いくらいに鳴った。それでも気付かれないように平常心でイアンはオリヴィアの頬を拭いた。  そっとハンカチを頬から離せば……頬の汚れが広がっていた。 「あれ」  イアンは首を傾げた。上手く拭けなかった。  綺麗な顔を汚してしまってイアンは申し訳なさに項垂れた。オリヴィアには叱られた犬のように見えてしまう。   「ごめん……俺のハンカチ汚れていたかな? いや、毎日清潔なハンカチをもちろん持ち歩いているか誤解しないでくれ」 「誤解しないわ」  全然気にしていない、とオリヴィアは首を横に振った。   「そうか、なら良かった──そうだ、噴水の水で顔を洗えば綺麗になる。ちょっと待ってて」    とオリヴィアから離れて噴水へ行こうとしたイアンの袖をオリヴィアは掴んだ。 「どうしたの?」 「私も一緒にジャスミンの花を植えたい」 「オリヴィアも? でもドレスが汚れてしまうよ」  アンが選んだドレスは水色と白の縦線のワンピースだった。ドレスの下半身の裾はふんわりとしていて、十四歳のオリヴィアを幼く、愛らしく見せる事にとても成功していた。そんなオリヴィアの服が汚れてしまってはいけないと思ってイアンは、申し訳なさそうに眉を下げた。そういう時、否定の言葉が出てくるとオリヴィアは知っている。  オリヴィアはイアンの両手を握り締めた。 「ダメ?」  顔を覗き込まれ、上目使いで言われたら、そんなの、そんなの──……ノーなわけがない。   「ダメなんて事は絶対にないです。汚れたって新しいドレスを俺が買ってあげます」 「ヤッタ! 私、土いじり初めて!」  パァっと表情が明るく笑ったオリヴィアをイアンは眩しそうに目を細めて、彼も笑った。  イアンはどんな時でもオリヴィアに対してイエスマンだ。オリヴィアのドレスが汚れてしまう、と思ったものの、オリヴィアが怪我をする訳ではないし、ドレスが汚れたら買ってあげたら良い。だって俺は、スェミス大国貴族界の中で一番金を持っているんだ。オリヴィアに出し惜しみなんてしなくて良い。  それから二人で土を耕して、ジャスミンの苗を色毎に植えていく。  銀色の髪や顔、ドレスが土で汚れてしまったものの、オリヴィアは気にしなかった。イアンと肩を並べて花植えをする日がくるなんて夢にも思っていなかった。 「これって、初の共同作業ね」  イアンにそう言えば、くしゃっとした笑顔が返って来て、「無邪気で子供みたいで可愛い」と十歳年上の男相手に本気で思った。胸の奥がくすぐったくなる──これって、母性本能、っていうのね。 ♦  オリヴィアは昼間、結婚記念日の計画に必要な一つ『花冠』を用意する為に庭園で過ごした。庭師が手入れしているグゥイン公爵家の庭園は、レンガ色の石畳の道の左右には美しく整備された芝生があって、その芝生には左右対称で色彩豊かな花々が並んでいた。その先には涼やかな水飛沫を上げる丸型の噴水が広がっている。噴水を囲むように咲いている黄色、ピンク、白色のジャスミンのうちの白い花を摘んでから、オリヴィアはその噴水の低い石座席に座って花冠を編んだ。  ジャスミンを二本垂直にクロスして、縦に置いたジャスミンにもう一本の茎を折れないように巻き付ける。それをひたすら繰り返しながら、オリヴィアはイアンと一緒にジャスミンの苗を植えた日々を思い出していた。 「──フフっ」  思い出し笑いをして、「私、イアンのことを本当に好きなんだわ……」とオリヴィアは再確認をした。一本一本花を編む度にイアンへの気持ちが胸に沁みて、愛しさが溢れ出すのだ。  イアンに伝えなきゃ――。いつも伝えられてばかりだから、私も同じだって伝えるの。少しでも貴方の想いに応えたいって、思ってる。 (サーレン様に感謝をしなくちゃ)  あの劇場で、サーレン様から訊ねられなかったら私は今の生活を当然のように受け入れていただろうから。多くの使用人達に支えられている事を、感謝一つせずに過ごしていたと思う。イアンが汗と土にまみれて自分の手で花植えをしている姿を見て、屋敷の全ては"誰か"の手で私達の為に準備してくれた、って知る事が出来た。  ジャスミンの花畑もイアンの手で植えられたって、知らずに毎日、目に映して過ごしていた筈だから。
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