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ただ、本当に好きならば何があっても手放すな、と母上は言いたかったのだ。
『本当に愛する人ができたなら、愛し守り抜くの。手放しては駄目。後悔しない愛し方をなさい。その為に強くなりなさい。身体を鍛えるだけでは駄目、精神も鍛えるの。死ぬ気で愛しなさい、死ぬ気で守りなさい』
これこそが母上が俺と兄上に願った事だ。
『生半可な気持ちで愛を語るな』
父親へ言った言葉というよりもというよりも母上の双子の妹──オリヴィアの母親を振った男性に対しての怒りでもある。俺達にそうなるな、と鬼気迫った表情でそう告げた。
『サラとオリヴィアが苦しい思いをしたのは全てあの男の選択が原因よ。イアン、貴方はそうならないように』
そう釘を刺された。イアンは当然首を縦に振った。
イアンのオリヴィアへの気持ちは生半可なものじゃなかった。
オリヴィアを傷付けた人間の心臓を剣で一突きし、それから首を刎ね、良心の呵責は起きなかった。まして帝国の皇族は国民から憎まれ、そんな人間を殺した事を逆に感謝されているくらいだ。
ただ、殺すだけじゃ生温い、とは思った。迎える結末は『死』だが、そこへ向かうまでに、もう少し苦しめて殺せば良かった、と後悔はしている。
あぁ、でも……。
(俺はオリヴィアを手放さなければ……)
俺はいつだって、オリヴィアの願いを叶えてきた男だから。
自分の傍を離れないように『孕ませる』のは確かに有効的だろう。子供を人質に取れば良い。
しかし、そんな事は絶対にしない──してはいけない。オリヴィアの母親が娘を盾にされ皇帝と彼の年老いた父親から夜な夜な性的暴行を受けていた。それと同じ運命なんて辿らせない。
オリヴィアを襲うのは簡単だ。
一緒に眠る時、彼女の腹の上に置いた両手を下にズラして両足の間を暴けば良い。若しくは上にズラして柔らかそうな胸を揉めば良いのだから。
体重が倍もある男が上に乗れば、軽いオリヴィアは一寸たりとも動けないだろう。
(――邪念を打ち切る為に睦言や閨に関する本や話は耳にしないようにしている)
イアンだって健全な男だ。
オリヴィアの細い腰を引き寄せて思いっ切り腰を振りたいし、イチゴのように瑞々しい甘そうな唇に喰らいつきたいって思っている。今日の髪型なんて、普段と違って髪を結い上げているせいで、オリヴィアの顔の小ささが強調されていたし、横髪が落ちて頬に当たっている横顔は、可憐だった。
そんなオリヴィアに興奮しない訳がない。
しかし、イアンの精神力は並の男以上にあった。理性を崩さない為に鍛えた精神力はオリヴィアを傷付けない為だけにある。
(あの人のように、孕ませるだけ孕ませて逃げられてしまうような事だけはしない。俺はオリヴィアを傷付けない)
そこまでして手に入れたくはない。俺が欲しいのは、オリヴィアの心なんだ。
──結局は失敗に終わったが……。
イアンは頭を抱え込んでいた両手をそのまま顔を覆った。
掌のに向かって重い溜息を吐く。
「俺はどこかで選択を間違えたんだ」
(間違えたから、離婚をしようと言われてしまった)
例えば、初めて出会ったあの月夜の晩。
己の欲望のまま、自国に連れて帰っていればオリヴィアは姉妹と皇帝から酷い目に遭わされずに済んだ筈だ。
例えば、黒犬を飼うのを断った。
サプライズなんて慣れていない事をしようと思わなければ良かった。
考えれば考える程、それっぽい原因が次々と頭に浮かぶ。
そういった事が積み重なって、オリヴィアは俺と離婚したがっているのか。
『何を悩んでいるか知らねぇけどさ。ちゃんと話し合えよ』
午後の勤務で隣の席の同僚に言われた台詞だ。
ユングから追い出され、フラフラな状態で経理課へ帰ってきて呆然としながらも事務作業をしていた時に、シェルフは心配して声を掛けてくれた。
『夫婦なんだから』
(そうだ、俺達は夫婦だ)
シェルフに言われた言葉を思い出して、イアンは「そうだな」と呟いた。
オリヴィアの願い通りに離婚をしてあげるのは簡単だ。
まず、理由を訊くのが解決への第一歩だ。
(もしかしたら、改善できる理由かもしれないからな)
そうなら離婚を思い止まってくれるかもしれない。
オリヴィアの事になると、何故か言葉が上手く出てこない。
それは──自分の発言でオリヴィアに嫌われるのが怖いからだ……。
瞳に光が戻ってきたイアンだったが控えめな扉をノックする音が聞こえて、顔を上げた。ノック音と一緒に自分の名を呼ぶ声がオリヴィアのものでイアンは思わずベッドから飛び上がってしまう。
(まだ、心の準備が)
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