貴方の心が欲しい

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「あ、そうだったわ」  オリヴィアはそう呟いてベッドから立ち上がった。彼女の手がイアンの手を離れていく。  そのしっとりとした手の感触が名残惜しいと思って、イアンはオリヴィアの細くて綺麗な指を目で追った。  白い指がワゴンに置かれたティポットへ触れた。 「お詫びでね、具合が悪いなら、って思ってイアンに蜂蜜入りの紅茶を淹れてあげようと思ったの。飲んでくれる?」 「オリヴィアが淹れてくれるの? 勿論だよ」 「ミルクも入れる?」 「あぁ」  ティポットに茶葉をいれ、熱湯を注ぎ蓋をして数分蒸らす。それから茶こしでこして、別のポットに移し替え、カップに注いでたっぷりの蜂蜜と牛乳を入れて混ぜる──手際が良く準備をするオリヴィアの姿をイアンは微笑みを浮かべて眩しそうにして眺めた。  カップに注いだ紅茶をオリヴィアはイアンに差し出した。 「有難う、オリヴィア」  受け取ると、亜麻色のミルクティが出来上がっていた。蜂蜜の香りが鼻先を掠めてくすぐったい。ホッとする甘い香りだった。  オリヴィアを見上げると、ティカップを握り締めてキョロキョロしていた──椅子を探しているのだろう。  イアンの私室は、必要最低限の物しか置いていない。屋敷の執務室にデスクと椅子があるのだからと、私室に置いていなかった。執務室って言ってもヒラ事務官のイアンは自宅で書類整理をする事はほぼほぼ無く、今では雨の日にオリヴィアが過ごす部屋となっていた。この部屋から噴水と花畑がよく見えるからだ。  イアンの私室にある物はベッドと本棚と衣装部屋だ。それから身支度を整える為の姿見が一つ。寝台は毎日新しいシーツに変えられているものの、夫婦の寝室で眠る為、一度も使った事がなかった。本棚にはイアンがオリヴィアを喜ばせる為にはどうすれば良いか、と悩みに悩んで探し出した本たちが並んでいて、衣裳部屋は広い屋敷に比例して広いものの、服が半分も埋まっていない。正装用の軍服しか並んでいなかった。姿見しかない理由は、朝も夜とも寝室で過ごしている為、この場所で身を整える為の物を置く必要がないのだ。 「隣においで」  ポンポンと自分の隣を叩いて、オリヴィアをベッドの縁に誘う。 「でも、ベッドの上で飲食をしたらアンに怒られちゃうわ」  困ったように眉を下げたオリヴィアにイアンは苦笑した。   (今でもアンの言う事を聞こうとするんだなぁ)  昔と変わらないその事実が愛しいと思いもするし、憎らしいとも思う。後者はアンに対してだ。 「アンはここにはいないよ。言わなきゃバレないさ」  片目を閉じてオリヴィアにウインクを送る。すると、オリヴィアはみるみる相好を崩した。   「アンには内緒ね」  フフっと笑って、オリヴィアはイアンの隣に座った。 「ケーキも食べて。ショートケーキ、好きでしょう?」 「良く知っているね」  甘いケーキが好きだなんて、恥ずかしくて言えなかったのに。  オリヴィアはフフッと笑って、人差し指でイアンの口先にチョンと触れた。 「イアンを見てたら分かるわ。食べる時に、嬉しそうに口が笑うもの」  兄からも同じ事を言われた事がある。  オリヴィアにもバレていたのかと思ってイアンは頬を染めた。 「それにね、上にのってる苺は最後に食べるの」 (めっちゃあぁぁぁああ、恥ずかしいな……バレてる)    顔が熱い。  イアンの顔は茹蛸のように真っ赤だった。 「リンゴみたいに真っ赤ね」  六歳のオリヴィアと同じ事を言われ、目を見開いてオリヴィアを凝視してしまった。  大人になったオリヴィアが、あの頃と変わらない無邪気な笑顔で目の前に居る。 (俺は、離婚なんて事になったら、本当に手放せるだろうか……)  そんな疑問が沸いたものの、オリヴィアから「紅茶を飲んで」と催促されて離婚の問題は隅に追いやった。  紅茶に口をつけると蜂蜜の甘さとミルクのコクがあって素直に美味しい。それをオリヴィアに告げると、彼女は破顔した。   「私、紅茶の淹れ方を勉強したの! ()()のクロールから」 「うちの?」 「えぇ、うちの!」   『うちの』と言ったオリヴィアの言葉にイアンは思わず訊き返してしまう。 「それからうちのクロールがね、ケーキも焼いてくれたの。イアンを怒らせちゃったかも、って相談したら『俺に任せとけ』って。紅茶と甘い物を口にしたら、具合は良くなるだろうし、機嫌も良くなるって。ケーキはできたてよ。食べて」 「オリヴィアは──……『うちの』って言ったよな?」 「……え?」 「『うちの』クロールって言っただろ?」 「えぇ言ったわ……?」  イアンの言う意味が分からず、オリヴィアは首を捻った。   「だって、私のおうちのシェフでしょう? だから、うちのって言ったの」    イアンは空になったカップの底を凝視したまま動けなくなった。 「デリーズ、バンジャイ、ターニャに、ジュレック、ミュール、エレン、キャサリン、ジェス、スレッド、アルファードに……」  グウィン家の使用人の名前を指を折りながらオリヴィアはスラスラと読み上げていく。 「あと、アンもね。みんな、私のおうちの使用人たちよ」    オリヴィアはきょとん、としてイアンの名前を呼ぶ。俯いたまま動かない彼を見て、また、怒らせちゃったかな、と不安が過った。 「イア──」 「君は──ここを自分のうちだって思ってくれているんだな」 「あ――」  と、言葉を発したオリヴィアは口前に手を当てた。自然と口から出た言葉だから、気にも留めなかった。  帝国での生活は窮屈で自分の居場所がなかった。お母様と過ごしていた小屋は、一人になってからというもの、気が休める場所ではなくなって、寝ている時でも、いつ姉や妹がやって来るんじゃないかって、怯えて夜も眠れなかった。  スェミスへ逃げてきても、私はここに居て良いのかばかり考えていた。眠っても、悪夢を見てすぐ目が覚めてしまう。眠れない夜が続いていた。  それが、いつしか悪夢を見なくなった――……。 「私、今……とってもよく眠れてるわ」  イアンが私を抱きしめて眠ってくれるから。  それから、グウィン公爵家の使用人たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、過ごしやすいようにしてくれるから。  ――私、ここを自分のお家って思えてる……。  いつからかしら――そうよ。  イアンが使用人を紹介してくれた時。ターニャの笑顔を見た時――温かい人たちって思えたのは……あの時からすでに私はここを自分のおうちだって認識してたんだわ――……。 「わたし、みんなのこと、大好きよ」  自分の想いが言葉としてこぼれ落ちた。  もうすぐ四年目を迎える時にやっと、イアンとは違う『大好き』っていう感情にオリヴィアは遅れて気付いた。  オリヴィアはカップをワゴンに置いて、顔の前で自由になった両手を合わせる。   (私は帰る家ができたんだわ──……)  ゆっくり瞼を閉じて、その感情を噛み締めた。  昔は、自分の居場所がないってずっと思っていたのに、そんな事を思わなくなったことに今気付くなんて、すっごく居心地が良いからだわ──。
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