貴方の心が欲しい

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  『私、紅茶の淹れ方を勉強したの! ()()のクロールから』  イアンはオリヴィアの口からそう聞いた時、聞き間違いかと思って、訊きかえした。しかしそれは勘違いでもなんでもなく、オリヴィアは笑顔でこう答えたのだ。 『えぇ、うちの!』 『だって、()()おうちのシェフでしょう?』 (オリヴィア、君はここを自分の居場所だと思えるようになったんだな──……)  スェミスへ来た頃は、借りてきた猫のように大人しかったオリヴィアが……結婚当初『イアンのお(うち)』と言っていたオリヴィアが……なんの違和感もなく『私のおうち』と発言して、その言葉は心から思っているようだ。休まる場所がなかったオリヴィアにその場所を提供できていた事を嬉しく思う。俺が今までやってきた事は何一つ無駄ではなかった。  ここに勤める使用人達を、自分の使用人だと認識している。彼らに心を許しているようだ。  その事を知って、イアンは嬉しくなる。それと同時に、心の隅に小さな穴がポツンと開いたような感覚にも陥った。  オリヴィアの様子を見て、イアンはオリヴィアの幸せに自分は必要がない人間だという事を悟った。場所を提供しただけで、俺はオリヴィアの心の支えになる事が出来なかった。  オリヴィアが言った『みんなのこと、大好きよ』の『みんな』という単語に俺は含まれていない。現に、使用人達に『好き』だと言っても俺の名前は上がってこなかった。  その事実を目の当たりにして、あわよくば好きになって欲しいなんて思わないという考えはただの強がりだったと思い知らされた。 『愛している』  という言葉に返して欲しい。  その澄んだ綺麗な声で、天使のような可愛らしさと女神のように神々しく、告白して欲しいと心の何処かで願っていた。  でも、オリヴィアの幸福に俺は必要ないと知る。 (俺が居なくても、オリヴィアは幸せだ)    場所だけを提供する事が出来て、本望じゃないか。俺が望んだ事だ。  オリヴィアに帰る場所を提供出来た事だけが救いだった。  そう思う反面、心の隅に開いた小さな穴が想像以上に痛くて、目頭が熱くなった、オリヴィアの琥珀色の瞳を見てしまって、その痛みが強まってしまう。オリヴィアが幸せなら、嬉しい筈なのに、何故こうも苦しいのだろう──居ても立っても居られなくなって、気付けばイアンはオリヴィアを抱き締めていた。  初めて正面から抱き締めるオリヴィアの感触を楽しむわけではなく、ただ、抱き締めた。 「オリヴィアはみんなの事好きかい?」 「もちろん。大好きよ」 (──嬉しいよ、オリヴィア。君はアン以外の人間を信用する心が戻ったんだな)  例え、その中に俺は居なくとも。 「そうか──全部、君のだ」 「えぇ」 「人も花も、お金も」 「えぇ。全部わたしのね」 (その通りだよ、オリヴィア。全部、全部君のだ)   「この屋敷全部、君にあげるよ」 「もう、私の家だわ」 (俺が君にしてあげられるのはそれくらいだから)    あんなに話し合おうと思っていたのに、今のイアンにはオリヴィアの答えを知るのが怖かった。もし、はっきり「離婚したい」と告げられたら、自分がどうなるか容易に想像出来る。  オリヴィアの心が手に入らない、と今思った時点で、オリヴィアを「囲みたい」と昏い感情が心を蝕みそうだからだ。これが全身を覆わない為に、彼女の為にも離れるべきだとイアンは思った。  オリヴィアの口から聞いたら、きっと俺はどうにかなってしまう。  だったら、自分から告げようとイアンはオリヴィアを抱き締めながらそう思った。  男の俺から終わらせるべきだ。  それに──俺からこの結婚を始めたのだから。 「離婚しよう」  もう二度と一日の終わりと始まりに彼女を目に焼き付ける事が出来なくなるのか──……。    長い沈黙があった。  イアンはオリヴィアを抱き締めたままで、オリヴィアはイアンの腕の中から動く気配がない。  最初に動いたのはイアンだった。オリヴィアから腕を解こうとしたら、背中のシャツをオリヴィアからギュッと力強く握り締められて、イアンはオリヴィアを抱き締めたまま動けなくなった。  腕の中のオリヴィアは肩が僅かに震えている。男性が苦手なオリヴィアを体格が彼女の倍ある自分が力任せに抱き締めてしまった事を今更ながらにイアンは後悔した。しかし、彼女から離れようと思っても、背中のシャツをしがみ付くように引っ張られている為、動けない。  長過ぎる沈黙を破ったのはオリヴィアだった。   「…………私の事、嫌いになったの?」    掠れる声でそう訊ねられたイアンの肩が強張った。「そんな事ある筈ないだろ」と咄嗟に返せば、オリヴィアがイアンの腕の中で顔を上げる。お互いの目が合い、オリヴィアの表情が怒りを含んでいて、イアンは口を噤んだ。 「わ、わたしに一生を賭けて、忠誠を誓うって言ったわ! 傷つけるもの全てから守るとも言った! 私の前で跪いて、わ、わたしは剣を、イアンの肩に置いて、裏切る事なく誠実であれって、許すって言った! イアンは剣にキスをした! 騎士の誓いは破られてはいけない誓いなのよ! 自らの意思で破るなら、死ななきゃならないのよ!」  ハァハァと呼吸を乱しながら、オリヴィアはイアンを睨みつけた。  そんなオリヴィアからイアンは視線を逸らす事なく凝視した。  六年前に怯えるオリヴィアを安心させる為にした騎士の誓いは、あの時確かにオリヴィアへ忠誠を誓う為に捧げたものだ。再会したオリヴィアを、何があっても自分が守ると誓った.。傷付けるもの全てから守ると。   『騎士の誓いはこれから出会う大事な人にとっておくべきだよ』と幼い頃、ロイド()から言われたものの、イアンは王に忠誠を誓う騎士となり、国王となった兄へ忠誠を誓おうと思っていた。しかし彼が選んだ道は国の防衛を司る軍人である。   『兄上をお守りするには力を身に着けただけでは守れないし、反逆者を捻じ伏せられない』  と、イアンがロイドへ言ったのは本音でもあったが──建て前だった。  人は好き勝手に物を言う。  いくらイアンとロイドの兄弟仲が良くても、部外者はそんな事知った事ではない。正当な王族の血を引いていて知性派の『ロイド派』につくか、平民の血が流れていても兄とは違う武闘派の『イアン派』につくか──を勝手に酒の席で妄想を振り広げるような輩がいる。しかも新国王が誕生した戴冠式を終えた宴の席で。    
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