遅い初恋

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 ──野蛮だわ。  ネロペイン帝国皇女本人は手に持ったクジャクの羽の扇子で口元を隠すようにして吐いた。聞こえないと思って呟いたのだろう。確かに声は蚊が鳴くように小さかったし、普通の人間ならば聞こえない音量だ。しかし目の前に立つイアン・ジョー・グゥインの耳にはしっかりと入っていた。すぐ目の前にいて近距離だからという理由でも何でもなく、イアンは()()ではないので聞こえてしまったのである。 「では、またの機会に私とダンスを踊ってくださいませ」  皇女の目が糸のように細くなり、背を向ける。ヒラリと舞ったドレスの裾を見てからイアンは皇女の背中に一礼した。 (そんな機会二度とないがな)  無表情の顔の下で、そう吐きながらイアンも皇女に背を向ける。──こういう時、常日頃から表情筋が死んだ能面ヅラは楽だ。相手をどんなに嫌っていてもそう簡単にバレる事はないからな。  皇女はクジャクの羽で表情を隠し、微笑んだつもりだったのだろう。目は真実を語る。その瞳は明らかな軽蔑が浮かんでいた。  しかしイアンは、皇女の暴言にも、その表情にも気付かないフリをした。相手が身分の高い皇女だからではない。身分で言えばイアンはネロペイン帝国と同盟国であるスェミス大国国王と腹違いの弟ではあるが、第二継承者である。ここでそれを指摘した所でこの場所はネロペイン帝国の城内だ。他国でそれを指摘するにはリスクがあり過ぎる。  しかし、イアンが帝国の皇女に「野蛮」と言われてしまったのはワケがあった。  イアンは皇女からファーストダンスを誘われた。帝国の習わしで、ファーストダンスは婚約者同士だと決まっている。ここでイアンが皇女の手を取り踊ってしまえば、他国中に二人は婚約者同士だと噂が立ってしまい、婚約せねばならなくなってしまうだろう。皇女にイアンをダンスに誘うよう仕向けたのはネロペイン帝国の皇帝だ。帝国はスェミス大国の豊富な資源を虎視眈々と狙っていて、結婚という形でスェミス大国を支配下に置きたがっている。しかし断られてしまえば、それは失敗に終わるのだが、皇帝はイアンは断らないと踏んでいた。スェミス大国では女性からのダンスの誘いを断るのは失礼に当たる。女性が勇気を振絞ったのものを無下にする事は無礼とされていた。だから皇女の誘いに乗ってダンスを踊るだろう──しかし、イアンには通用しなかった。何故ならイアンは自国で王族として参加させられる舞踏会で、女性からダンスを誘われたとしても無下にするからである。毎回同じセリフで。 「私の手は剣を振り回す為にしか使用していませんし、足は戦場を走り回るだけのものですから、貴女様の手をとってダンスは踊れません」  ──と言えば、貴族令嬢引き攣った顔を扇子で隠しながら去って行く。そんなイアンを見てスェミス大国王太妃で義母のジェシカがイアンをダンスに誘うのが毎回の流れだ。イアンはジェシカとは踊るのだが舞踏会で貴族令嬢と踊った事なんぞ一度もなかった。  精悍な顔立ちのイアンは目と鼻、口に顎とはっきりとしたパーツの持ち主で、カラスの羽のような黒髪をショートヘアにまとめ、金色(こんじき)の目が隠れてしまう長さの前髪を後ろに流し、額を出している。清潔感を感じさせる彼は身長も高く軍服の上からでも鍛えている事が分かる体躯をしていた。決してモテない顔ではないし身分でもないというのに、愛想はなくニコリともしない。そのせいで令嬢達に人気はないのだが、令嬢だけではなくその両親達からも人気がなかった。 『国王に反旗を翻し、国を乗っ取るつもりだ』  と、スェミス大国の殆どの国民に『危険分子』と思われているからである。  スェミス大国の王族はしきたりでは十五歳を迎えると王家直下の聖騎士団へ入団する。国王か皇太子かが総長を務める騎士団は、この頃はロイドが座についていた。ロイドは弟が聖騎士団へ入団したら総長の座を譲る手筈だった。しかし、イアンは十五を迎えた同時に軍へ入隊をした。 「将軍に登り詰めたい」  とまで発言しており、これが誤解を招いてしまった。  イアンはブラコンだ。そんなブラコンが兄を裏切るつもりなんぞある筈がない。イアンは兄の力になりたいが為に騎士団ではなく軍隊に入隊したのだ。敵軍の情報は防衛を司る軍が最も詳しく聖騎士団の役割は王城内の警備と王族の護衛の為、そう言った情報は一切入ってこない。入ってきたとしても、いくら総長だとしても第二王子のイアンの耳には入ってくる事はないのだ。そうなると、ロイドの危機に早い段階から動けない。そう考えたイアンは、軍への入隊を決め、将軍になれば軍を掌握し、ロイドの為になるだろう、と考えに至ったのだった。
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