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テレビのワイドショーを見ながら居間で横になっていると、急に掃除機のモーター音が鳴り出した。テレビの音がかき消されて聞こえない。横になっていた体を起こし、テーブルの上にあるテレビのリモコンに手を伸ばし、テレビの音量を上げた。最近、ひいきにしている天然キャラの女性タレントがコメンテーターとして出演している。最初はこんな天然キャラがまともなコメントなど出来るわけないだろうと思っていたが、意外と的を得た忖度のないコメントをする上、笑顔が可愛いので知らない間に私は彼女のファンになっていた。
「あなた、ゴロゴロしてないで手伝ってよ」
妻の美和子は掃除機のスイッチを切ってから、天然キャラの映るテレビ画面の前で仁王立ちした。天然キャラの笑顔が見えない。
「あ、ああ、今ちょっといいとこだから」
私は美和子の後ろのテレビ画面に映る天然キャラの姿を見ようと頭をずらして覗きこんだ。
美和子は舌打ちして掃除機のスイッチをオンにした。ウィーンと掃除機が鳴り出した。気のせいか、掃除機の音がさっきより大きくなった気がした。結局、天然キャラの笑顔は見えず、彼女のコメントも聞こえなかった。
今度はこっちが「チェッ」と舌打ちをした。その舌打ちが美和子に聞こえたのか、掃除機をかけながらギロリときつい視線を私に向けてきた。
娘の彩加は朝から出かけて家にいない。今日は帰るのが遅くなると美和子が言っていた。休日に彩加が家にいても私と会話することも少なくなったが、私と美和子の険悪な雰囲気の時のクッション役になってくれるので、今日はいてほしかったなと思う。
「フゥー」と息を吐いてから立ち上がり、トイレに逃げ込んだ。
トイレを汚さないように神経を集中させ小便をした。自宅にいるのが一番息苦しく感じるようになったのはいつ頃からだろうか。
結婚なんてしなきゃよかったなと、最近よく思うようになった。小便をしながら、今から出かけることに決めた。私と美和子のお互いの精神を安定させるためにはそれが一番いい。トイレから出て、財布とタバコとスマホをカバンに放り込んで玄関へと向かった。
「今から出かけてくる」
美和子の顔も見ずに宙に向かって言った。
「どこ行くのよ」
美和子の声が背中に突き刺さったが、それを無視して、靴箱からヨレヨレになった運動靴を取り出した。
美和子もそれ以上何も言わなかった。「ハァー」というため息をつく音だけがした。小さな音だったが私の耳朶にべったりとへばりついた。
八月も後半に差しかかり盆休みも明日までだが、青い空に入道雲が浮かび日差しはまだまだ真夏だ。歩くだけで体力が消耗する。家は出たものの、これからどうするか歩きながら考えた。この暑さのなか野外に居続けるのは自殺行為だ。どこか涼しいところに避難したい。久しぶりにパチンコにでも行こうかと思い、財布の中を覗いたが軍資金が乏しすぎる。下手したら三十分でスッカラカンになるだろう。そうなってしまっても、美和子から追加の小遣いを要求する勇気などない。自分が働いて稼いだお金なのに自由につかえないのかと思うと情けなくなる。
結婚なんてしなきゃよかったな。またそう思う。
額の汗を手でぬぐいながら、適当に歩いていると駅に到着した。行く当てもないが電車に乗ることにした。定期の使える区間ならお金はかからない。車内はエアコンも効いているだろうし、普通電車ならガラガラで座れるだろう。
駅に入りホームに立つとタイミングよく普通電車が入ってきた。車内に乗り込むと、思っていた通りガラガラに空いていた。車両にいる乗客は老若男女合わせて十名程度だ。入ってすぐ左の四人掛けの座席を独り占めして座った。冷えた空気のおかげで汗がスーッと引いていく。座席に体を預け目を閉じると、意識が遠くなっていくのが心地よかった。このまましばらく眠ることにしよう。そして、目を覚ましてから家に帰って美和子に離婚したいと告げよう。この先、私が幸せになるためにはそうするしかない。
「あんた、辛そうじゃな」
体を揺すられて目を覚ますと、しゃがれた声が聞こえた。私の目の前にはしわくちゃの白い顔があった。
ビックリして、「ウワッ」と声を上げ体を反らした。今、目の前にいるのは何者かと恐る恐る覗き見ると、どこにでもいそうな老人だった。禿げ上がった頭をして、横に残った髪の毛は白髪まじりでボサボサしている。落武者のような髪型だ。顎から頬にかけては白くなった無精髭が目立つ。
車内を見渡すと、この車両に乗り込んだ時にいた乗客の姿はなかった。今この車両にはこの老人と私だけしかいない。他の座席が空いているのに、なぜわざわざここに座るのかと思った。いつの間に他の乗客はいなくなってしまったのだろうか。私が眠っている間に一体どれだけの駅を通り過ぎたのだろうか。
「なに、不安そうな顔をしとるんじゃ」
老人はなおも話しかけてくる。面倒臭そうだから、無視して次の駅で降りることにしよう。
この老人は最初に「あんた、辛そうじゃな」と言った。なぜ、今の私が辛いとわかったのだろうか。苦しそうな顔をして眠っていたのだろうか。変な寝言でも言っていたのだろうか。訊いてみたい気もするが、取り敢えず愛想笑いだけ浮かべて下を向いて過ごすことにした。
「生きておればいろんなことがあるもんじゃよ。辛いと思うこともある、過去のよかった日のことを忘れてしまってな」
老人はそう言って、私の横に移動してきて座った。私は老人を避けるようにして体を窓側にピタリと寄せて窓の外の景色を眺めた。目の前には見覚えのない景色が流れていた。一体どこなんだ。私はどれくらい長い時間眠ってしまってたのだろう。
「そんなに怖がらなくてもいい。わしはあんたの味方なんじゃから。あんたを助けてやろうと思ってるんじゃ」
老人は私の耳元に顔を近づけてそう囁いた。気持ち悪くて悪寒が走った。
「助けてもらわなくて大丈夫です。別に辛いことなんてありませんから」
私は体を硬直させ窓の外に顔を向けたまま言った。
「嘘をつくな。奥さんとうまくいってないんじゃろ。結婚なんてしなきゃよかったと思って、離婚するつもりなんじゃろ」
老人はまた耳元で囁いた。
なぜ、わかっているのかと、老人の方に顔を向けた。老人はニヤニヤしながら、「図星じゃな」と言って私の膝に手を置いた。私は慌てて老人の手を払った。
「やめて下さい」
「怖がらなくていいと言ってるじゃろ。わしはあんたを助けにきたんじゃから」
「助けてもらわなくても大丈夫です。そんなに困っていませんから」
「嘘をつけ」
「嘘じゃありません」
「あんた、今日が何の日か覚えてるかい?」
老人が急にわけのわからないことを訊いてきた。何の日と言われて思い浮かんだのは、京都の五山送り火ということくらいだ。
「今日は京都の五山送り火ですね」
私が答えると、老人は「やっぱり忘れとるんじゃな」と言って私の目をじっと見た。
掃除を終わらせてから「ハァー」とため息を吐いた。
「あーあ、出ていっちゃった。なんでいつもこうなっちゃうんだろ」と玄関の方を見て呟いた。
そこで、ポケットからスマホの音がした。画面を見ると娘の彩加からだった。いい報告が出来ないなと思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
「お母さん、お父さんと今日のデート決まったの?」
彩加が耳に突き刺ささるくらいの高い声で楽しそうに訊いてきた。一ヶ月くらい前に、今日がお父さんとお母さんの記念日だという話を彩加にしたら、じゃあ、その日は夫婦水入らずで、思い出の場所で食事でもしてきたらと言って一万円をカンパしてくれた。
最近、私たち夫婦がギクシャクしていることを娘として気にしているようだった。彩加自身、そろそろ結婚を考えているからそういうことに敏感になっているのだろう。今日の記念日をわたしたち夫婦の仲直りのきっかけにしてほしいと思ったようだ。彩加の言うように、わたしも今日の記念日をきっかけに昔のように主人と仲良くなりたいと思っていた。
しかし、なぜか、主人の顔を見るときつく当たってしまう。今日も娘のいうようにはうまく誘えなかった。
「お父さん、一人でどこかに出かけちゃったわ」
わたしは気落ちしていることを彩加に悟られないように明るい口調で言った。
「うっそー。お母さん、お父さん誘わなかったの」
「そのつもりだったんだけどね。誘う前にいつものように揉めちゃってね。それで言い出せなかったわ」
「そうなんだ。せっかくの記念日なのに」
彩加がわたしを非難しているように聞こえた。
「ごめんなさいね。せっかく彩加が提案してくれてカンパまでしてくれたのに」
「なんでよ。なんで誘わなかったのよ」
「なんか照れ臭くて、最後はいつも通り喧嘩みたいになっちゃったわ」
「今のお父さんとお母さん見てると、あたし結婚やめようかなと思っちゃうよ」
「それはダメよ。悟さんはお父さんと違って家庭を大切にしてくれる人だから大丈夫よ」
「どうかな。お母さんだって二十五年前は、そう思ってお父さんと結婚したんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「二十五年前みたいにアツアツに戻ってよ。そうしたらあたしも結婚に踏み切れるかもしれないからさ。お母さんから二十五年前の今日の話を聞いた時、あたしはすごく感動したんだからね。だから、今日二人で思い出の場所でデートしてほしいから一万円カンパしたんだからね」
「それはわかってるけど、結局その一万円、あなたに返すことになっちゃうかもね」
「なに、弱気なこと言ってるの。今日がダメでも、明日でも明後日でもいいじゃない」
「うん、でも、やっぱり今日がいいわ。今日がわたしとお父さんの大切な記念日だから」
「じゃあ、今からお父さんに電話してみたら。ねっ、そうしよ」
「わかった。この後、お父さんに電話してみるわ。じゃあね」
まだ何か言いたそうな彩加だったが、わたしはそのまま通話を終わらせた。彩加との電話を終えて、彩加の言う通り主人に電話しようと思ったが、なかなか勇気が出なかった。
「どうしようかな」
そう呟いた時に、またスマホが鳴り出した。彩加がまだ何か言いたかったのかもと、スマホの画面を見ると、主人からだった。わたしは彩加の忠告通り、ここで誘わなければいけないと、深く息を吸ってからスマホの通話ボタンを押した。
スマホの向こうから主人の声が聞こえた。主人は興奮した様子で早口で捲し立てるように話してきた。
わたしは主人の話を聞いて、「えっ」としか言葉が出なかった。続けて「嬉しい」と言った。嬉しくて涙が溢れてきた。そして、覚えていてくれたんだと思うと胸がいっぱいになった。
「忘れてる、ですか?」
私は老人に向かって言った。
「そう、忘れとるんじゃ。あんたたち夫婦はそれだけ気持ちが冷めてしまっているということじゃな」
「そうですかね」
「あんた、結婚したことを後悔してるんじゃろ。すぐにでも離婚したいと思ってるんじゃろ」
「うーん、まあそうですかね」
確かに今は結婚なんてしなきゃよかった、離婚したいと思ってはいるが、その事を赤の他人に言われたくはなかった。
「今からあんたに結婚したことを取り止めにする方法を教えてやろうと思うとる。そうすれば、あんたは幸せになれるじゃろ」
老人は私の肩に手を回し顔を近づけてきた。
「そんなこと出来るわけないですよ」
「それが、わしになら出来るんじゃ。もし、今、あんたが独身に戻れたら毎日が自由じゃぞ。好きなテレビは心置きなくみることができるし、自分の稼いだ金は全て自分のものじゃ。自由に遊び放題じゃぞ。あんたはそんな生活がしたいんじゃろ」
「ええ、まあ、そうですかね」
老人の言うことに頷いた。確かに最近は独身なら自由なのになと、そんなことばかり考えていた。だから、今日この後、美和子に離婚しようと言うつもりだ。
「じゃあ、結婚をなかったことにしてやろう。そうしたら離婚するなんて面倒なことを考える必要もない」
老人がわけのわからないことを言ってきた。あまり相手にしない方がよさそうだ。
「そんなことできるわけないですよ。疲れてるので、少し眠りたいんです。あまり話しかけないでもらえますか」
「あんたが独身になって、自由な生活を送る方法をわしは知っとるぞ」
「そんなこと絶対にできません。ほんと静かにしてください」
私は苛立ってきた。次の駅で降りるつもりでいたが、普通電車のはずなのになかなか駅に到着しない。車窓を見ると、電車は山の中を走っている。全く見覚えのない景色だ。
「あんたは今からわしの力で二十五年前にタイムスリップするんじゃ。そして、あんた自身で二十五年前の今日の出来事を変えてしまうんじゃ」
「はあ?」
私は老人の顔をじっと見た。冗談を言ってるのか、バカにしているのかと思ったが、老人の目は真剣だった。
「あんた、二十五年前の今日が何の日か覚えてないのか」
老人に訊かれたが全くわからない。結婚記念日でもなければ、美和子の誕生日でもないはずだ。もちろん私の誕生日でもない。
「いやー、覚えていません」
首を傾げるしかなかった。
「二十五年前の今日を変えれば、あんたの人生は変わるんじゃ。五山送り火で思い出すことはないのか」
「五山送り火で思い出すことですか?」
二十五年前の私は二十五歳だ。まだ独身だったが美和子と付き合ってはいた。
「二十五年前、あんたは五山送り火を見ながら何をした?」
老人が私の目をじっと見つめてくる。二十五歳の頃のことを思い返してみた。そしてそこで思い出した。
そうだ、二十五年前の今日、私は京都まで行ってレストランで食事をした後、五山送り火を見ながら美和子にプロポーズをしたのだ。
『これから先、一生、君と五山送り火を見て過ごしたい』
確か、美和子に向かってそんなことを言ったはずだ。その時、美和子は涙を流しながら『嬉しい』とだけ言って、私の胸に顔をうずめた。
「思い出しました。二十五年前の今日、私は今の妻の美和子にプロポーズしたんです」
老人に体を向けた。
「そういうことじゃ」
老人はニヤリと笑った。
なぜ、この老人が私の過去を知っているのだろうと不思議に思ったが、それより、老人が何を考えているのかが気になった。
「それで、これからどうするつもりなんですか?」
「簡単じゃ。これからわしがあんたを二十五年前に送ってやる。二十五年前の今日ではなく昨日にだ」
「私を二十五年前の昨日に送るんですか?」
いまいちピンと来なかった。
「あんたは今からタイムスリップして二十五年前の昨日に行く。そして二十五歳のあんたに明日のプロポーズをやめるように言うんじゃ。今のあんたがバカな女と結婚したおかげで、どれだけ辛い思いをしているかわからせてやればいい。そうしたら二十五歳のあんたも熱が冷めて美和子がどれほどバカな女なのかに気付いて、プロポーズを取り止めるはずじゃ」
老人には一応「なるほど」とは言ったものの、私の妻を美和子と呼び捨てにし、バカな女と言ったことが、なぜか気にくわない。つい老人を睨みつけた。それにタイムスリップなんて本当にできるのかも疑問だ。この老人は頭がいかれているのかもしれないと思った。老人は私が立腹している態度を気にする様子もなく、私の頭に手のひらを置いた。
「さあ、行ってこい。二十五年前のプロポーズをやめさせてこい。これであんたの人生は幸せなものに変わる」
老人はそう言って、私の頭を力いっぱいギュッとおさえつけた。
「ちょっと、待ってくだ……」
私は老人に言いかけたが、それは途中で切れてしまった。一瞬、目の前が真っ白になった。それからすぐに視界に少しずつ色がついていった。
「俺はお前を一生幸せにする」
視界が開けていくのと同時にそんな声が聞こえてきた。ボンヤリしていた視界が完全に開けて、見えてきたのは見覚えのある景色だった。一人暮らしをはじめる時に無理して買ったテレビと冷蔵庫。ホームセンターで買った三段の木製ボックスや小さな食器棚。ここは二十五年前に私が住んでいたワンルームマンションに違いない。
そして、私に背中を向けて立っている若者がいた。若者はベランダに向かって何やら呟いていた。
「俺は、お前のことを愛している。いやー、違うな。美和子、この五山送り火を一生君と見続けたい。こんな感じの方がいいかな」
彼は私に気付く様子もなく、一人窓から空を見上げながら呟いていた。そこで思い出した。二十五年前、私は明日のプロポーズのセリフを空に向かって必死で練習をしたのだ。
これが不幸の始まりだとは、この時は思わなかった。これから、こいつに明日のプロポーズが不幸の始まりになることを教えてやらなければならない。
「おい」
こっちに背を向けてベランダに向かって立っている能天気な二十五歳の私に声をかけた。
若い私は体をビクッと反応させて振り向いた。私と目があってしばらく私の顔を見つめたまま動かなかった。ビックリして体がかたまってしまったようだ。
しばらくして、若い私は「ウワッ」と声を上げた。そして逃げるようにベランダに飛び出して行った。
急に現れた知らない男から、『おい』なんて声をかけられると確かに驚くな。優しく声をかけてやるべきだったなと反省した。
「驚かせて申し訳ないです。怪しいものではありません」
ベランダに飛び出した若い私に向かって丁寧な言葉で笑みを見せた。
「な、何が怪しいものではないだ。ひ、ひとの部屋に無断で入ってきて、あ、怪しくないわけ、な、ないだろ」
若い私はだいぶ驚いて興奮しているようだった。瞬きが激しくなり足が震えている。もともと私は気の弱い男だ。急に自分の部屋に知らない男が現れたら慌てても仕方がない。この後、私のことをなんとかしてわかってもらうしかない。
「私だよ、私。よーく私の顔を見てくれ。そうしたら私が誰だかわかるから」
そう言って私は若い自分自身に一歩近づいた。
「近づくな。それ以上近づくと」
若い私はそう言いながら後退りしベランダにあった物干し竿を手にした。そして、物干し竿を剣道の竹刀のように握り、その先を私に向けて、「ケガするぞ」と続けた。言ったあと、彼の喉がゴクリと鳴った。
物干し竿の先が私の目の前まで伸びてきている。その先はブルブルと震えているのがわかった。これ以上こいつを興奮させると、何をされるかわからない。
若い頃の自分に物干し竿で殴り殺されたなんてことになればたまったもんじゃない。加害者と被害者が同一人物ということになるわけだ。
「君に危害を加えるつもりはない。落ち着いてくれ。そして私の顔をしっかりと見てくれ。この顔に見覚えはないか」
私は両手を上げて、笑みを絶やさないようにしながら後退りした。
少し落ち着いたのか、彼はベランダから部屋に入ってきて、私の顔を覗きこんだ。
「お前みたいなハゲ親父に見覚えはない」
ハゲ親父と言われたことに幾分ショックを受けた。
「私が誰だかわからないのか?」
「俺の親父に似てる気もするけど、お前なんて知らない。一体誰なんだ」
「信じてもらえないかもしれないが、私は君自身だ。二十五年後の五十歳になった君なんだよ」
「おっさん、なに訳のわからないことを言ってるんだ」
「信じてくれ。私の顔を見れば君自身だとわかるだろ」
「俺はお前みたいに頭は禿げてないし、シミとシワだらけの顔じゃない」
今の言葉に歳をとるということは辛いことだなと思った。
「二十五年も経つと、こうなっちまうんだよ」
情けない声を出した。
「ハハハ」
若い私は笑った。少し余裕が出てきたようだ。
「ハハハ、歳をとるって辛いよな」
私も笑ってみせた。
「本当なのか?」
彼は厳しい表情に戻り、物干し竿の先を一段と私の顔に近づけてきた。
「本当だ」
「証拠は?」
彼は物干し竿の先を私の顔に突きつけた。
「私の誕生日は五月二十六日だ」
「それくらい前もって調べればわかることだろ」
「初恋は小学校三年の時のクラスメートの稲本順子だ」
「確かにそうだ」
「へその横にデカイ黒子がある」
「ああ」
「中学の時に高橋朋子に告白して木っ端みじんになった」
「ハハハ、そんなこともあったな」
「信じてくれるか?」
私が言うと、彼は私の顔をじっと見た。
「今、言ったことは合ってるし、よく見ると確かに俺に似てるな。けど二十五年も経つと、こんなに腹が出て、頭は禿げてしまうのかよ。ただのシジイしゃねえか」
目の前に向けられていた物干し竿の先が床にコツンと落ちた。
ただのシジイって、私も若い頃は口が悪かったもんだな。自分自身に言われてるとわかっていても腹が立つ。しかし、今はそんなことはどうでもいい。
「ジジイになってしまったが、間違いなく私は二十五年後の君なんだ。こんなジジイにならないために、今のうちに不摂生な生活は改めておいた方がいいぞ。特に食生活に気をつけることと毎日の適度な運動を心掛けることだ」
「わかったよ。でも、二十五年後の俺が、何でここにいるんだ。二十五年後にはタイムマシンでも出来ているのかよ」
「いや、タイムマシンは出来てないが、不思議な老人が現れて私をタイムスリップさせてくれたんだ」
「不思議な老人って誰なんだ?」
「私も知らない老人だ。私の前に急に現れたんだ」
「何のために、その老人はあんたをタイムスリップさせたんだよ」
「ここからが本題だ。私がここに来た理由を今から話すから聞いてくれるか」
「もちろんだ」
「実は今の私は残念ながら不幸な人生になってしまっている」
「あんた見てると、そんな感じだな。幸せそうには見えない」
彼は私の頭のてっぺんから爪先まで視線を這わせた。
「やっぱり、そんな風に見えるか」
私は首を折った。
「あんた見てると、なんか辛気臭いわ。今の俺は幸せだけど、二十五年後にこうなると思うと、俺もショックだわ」
「だろ。だから、君がこの先、不幸にならないために、私は今日ここに来たんだ」
「なるほど。それで?」
「君にお願いがある。是非協力してほしい」
「俺に出来ることなら、もちろん協力するよ。未来の自分の為だからな」
「頼むよ、君にしか出来ないことなんだ」
私は手を合わせた。
「俺に何してほしいんだ。さっき言ってた食生活の改善と毎日の適度な運動か?」
「それもそうなんだが、もっと大切なことがある」
「他に何してほしいんだ?」
「してほしい、というよりやめてほしいことがあるんだ」
「やめてほしいこと?」
若い頃の私は眉間に皺を作り首を傾げながら、私の顔をじっと見てきた。
「そう、やめてほしいことがあるんだ」
「タバコや酒かな、パチンコは最近は勝てないからやってないしな」
「確かにそれもやめた方がいいかもしれないな」
「あんたは酒もタバコもパチンコもやってないのか」
「それは今の私の方が君よりよくやっていると思う。家に帰りたくないから、毎日のように飲みに行ったりパチンコに行ったりしているからな。ただ最近は金が無いからパチンコはやってないな」
「そりゃ、ダメだよ。体にも良くないし、金の無駄遣いだ。早く帰って家族を大切にした方がいい」
「ああ」
家族を大切にした方がいいという言葉が胸にグサリと刺さる。
「そうだ、家族で思い出した。俺は美和子と結婚したのか」
「そ、そうだな」
私は俯いてしまい声が小さくなった。
「そうか、俺は美和子と結婚出来たんだ。よーし」
若い私は持っていた物干し竿で床をトントンと叩いて喜んだ。
「嬉しそうだな」
「当たり前だろ。それより俺が酒やタバコ、パチンコ以外にやめないといけない事なんてあるのか? 美和子と結婚出来るとわかったから、あんたの願い事、何でもきいてやる気になったわ」
若い私の表情には満面の笑みが広がっていた。すごく言いにくい状況になった。しかし、明日のプロポーズをやめさせないことには、私は不幸のままだ。
「実はな」
大きく息を吸ってから、若い私の顔を見た。
若い私は「なに、なに?」と嬉しそうな表情で訊いてくる。この笑顔を見ると言いだしにくくなる。今から言う私の話を聞いて、彼はどんな表情に変わるのだろうか。ショックを受けることは間違いないだろう。
「明日、君は美和子にプロポーズするつもりだろ」
「あー、そうだ、今は胸がワクワクのドキドキだ。けど、あんたが美和子と結婚してると聞いて、気が楽になったよ。明日のプロポーズがうまくいくってことだろ?」
「そ、そうか、それなんだけど、えーと……」
「なに? 言いにくそうだけど、まさか明日のプロポーズはうまくいかないのか?」
若い私の表情が急に険しくなった。
「いや、う、うまくいくよ」
「やっぱり、そうか、うまくいくのか」
若い私の表情がまたパッと明るくなった。
「うまくいくんだけど、実は、やめてほしいのは、そのプロポーズなんだ」
「えーっ、何言ってんだ。あんた、頭おかしいんじゃねえのか。うまくいくとわかってて、なんでプロポーズをやめなきゃならないんだよ。それは絶対ダメだ」
持っていた物干し竿で床をドンと強く叩いた。
「明日のプロポーズはうまくいくんだが、それが私の不幸の始まりだったんだ。だから明日のプロポーズはやめてくれ。お願いだ」
私は頭を下げた。
「ふん、明日のプロポーズが不幸の始まりだなんて、そんなはずない」
私が顔を上げると彼は顔を真っ赤にし、体を震わせていた。私はそれを見て怯みそうになったが、ここで引くわけにはいかない。
「今の私は、不幸なんだ。それは美和子と結婚したからなんだ。私は美和子と結婚さえしなければ、今頃は自由で幸せだったはずなんだ」
「何、言ってんだ。俺は美和子を愛してるんだぞ。美和子と結婚して不幸になるわけないだろ。いいかげんな事言うな」
「二十五年後の私が言ってるんだから間違いない。今の君には、それがわからないだけなんだ」
「うるさい、人生の大事な時に俺の邪魔をするな」
「人生の大事な時だからこそ、こうして頼みに来たんだ。わかってくれよ」
「わかるわけない。お前の言うことは絶対に信じない。俺は美和子を幸せにすると決めたんだ」
「君は、恋しているから冷静でなくなっているんだ。二十五年後の美和子は、私に対して、給料が安いだの、パチンコばかりしてるだの、少しくらい家事を手伝えだの、そんな事しか言わないんだ。私が仕事で疲れていることなんてお構いなしだ」
「違う、美和子は、そんな女性じゃない」
「美和子は変わってしまうんだよ。今の私は美和子と一緒にいるだけで苦痛なんだよ」
「だまれ。悪いのは美和子じゃない。お前が悪いに決まっている。お前が美和子を幸せにできなかっただけなんだ。俺は絶対にそうはならない。美和子を絶対に幸せにする」
若い私の目から涙がこぼれていた。
「ダメなのか?」
「当たり前だ。俺の夢を奪うな」
若い私は声を震わせて拳を握っていた。私は彼のその姿を見て何も言えなくなった。二十五年前の自分の気持ちを思い返してみた。
あの時、美和子にプロポーズしてオーケーしてもらえるかが不安だった。けど、絶対に幸せにする自信はあった。だから、もし断られても諦めるつもりはなかった。何度でもアタックするつもりでいた。プロポーズしてすぐに美和子はオーケーしてくれた。五山送り火を見ながら、周りの目も気にせずに声を上げて飛び上がった。
その時、私は美和子を絶対に幸せにすると誓ったはずだ。なぜ、私は変わってしまったんだろう。
「そうだな。君の言う通りかもしれない」
勝手に涙が溢れてきて、目の前が霞んできた。そのまま目の前が真っ暗になり意識が遠くなっていった。
肩を揺すられて意識が戻った。見ると老人が私の肩に手をのせていた。
「どうじゃ、うまくいったかい。二十五年前のあんたにプロポーズをやめさせられたのかい?」
老人は笑みを浮かべていた。
「いや、二十五年前の私にプロポーズをやめさせることは出来ませんでした」
「ありゃー、ダメだったかい。そりゃ残念じゃったな」
「ええ、まあ仕方ないです」
私はじっと見つめてくる老人から目をそらした。
「では、もう一度、二十五年前に行って説得に行きますかな。今度はプロポーズの当日に行ってみることにするかな。二十五年前の今日に行って、力ずくでプロポーズの邪魔をしましょうか。面白そうじゃから、わしも一緒に行って、あんたの助太刀をするか」
老人が私の肩をトントンと叩いて笑った。
「いえ、もうやめておきます。そんなことしたら二十五年前の私がきっと不幸になります」
私は涙がこぼれそうになり上を向いた。
「何を言っとる。このままだと、あんたの人生は辛いままじゃぞ」
老人が眉間に皺を寄せた。
「いえ、私が間違ってました。今、私が辛いと思っているのは誰のせいでもありません。私自身のせいなんです。だから私が変わることが大切だったんです」
「あんたが変わることか?」
「そうです、私がもう一度、二十五年前のあの頃の気持ちを取り戻すこと、そう、私が変わることでしか、私は幸せにはなれません」
「そうかい、気づいてくれたかい。それならわしは必要ないな。あとはあんたに任せたぞ。邪魔したな」
老人がそう言うのと同時に私はまた気を失った。次に目を覚ました時、老人の姿はなかった。車内を見渡すと、いなくなっていたはずの乗客がいた。車窓から見える景色はいつもの見慣れた景色だった。
さっきまでの出来事は夢だったのだろうか。そうかもしれないが、二十五年前の今日、私が美和子を幸せにすると心に誓いプロポーズしたことは変わらない事実だ。
そして今日は五山送り火だ。今から美和子を誘って二十五年前に行ったレストランで食事をして、五山送り火を見に行こうと思った。それが、この先、私が幸せになるためにやるべきことだ。離婚するなんてバカなことを考えた自分が恥ずかしい。
早くしないと間に合わない、そう思いスマホで時間を確認した。不思議なことに老人に会った時から時間は進んでいなかった。この車両にいる乗客も乗った時と変わっていない。
取り敢えず次の駅で降りて、美和子に電話して、五山送り火に誘ってみよう。次の駅に着いた。長い時間が経ったと思っていたが、電車は一駅しか進んでいなかった。
ホームに降りてポケットからスマホを取り出し、美和子に電話をした。すぐに美和子が電話に出た。
「もしもし、美和子。今日は彩加もいないことだし、二人で食事でもどうだ」
興奮して早口になった。
スマホの向こうから「えっ」と驚くような声が聞こえた。スマホを耳に当て、続く美和子の返事を待った。胸の鼓動がドキドキと激しくなった。二十五年前のあの時と同じだ。
美和子から「嬉しい」という湿った声が返ってきた。
二十五年前の今頃の私は、ワクワク、ドキドキしながら美和子と京都に向かっている頃だろう。二十五年前、美和子にプロポーズすると決めた彼の勇気をこの先絶対に無駄にしてはならない。
あの日、あの時、あの場所で美和子にプロポーズしてよかったなと一生思い続けられるような人生にしよう。
布団に横になり天井を眺めながら、過去の過ちを悔やんだ。一人暮らしをはじめてすでに二十五年が過ぎた。この年になって一人でいるのは寂しいものだ。二十五年前に離婚さえしなければこんなことにはならなかった。わしはあの時何故、離婚を決断してしまったのだろう。
離婚してから、妻だった美和子のいいところばかりが頭を過る。結婚している時には、それが全く見えなくなっていた。美和子の悪いところばかりが目について、いっしょに過ごすことが苦痛に感じていた。結婚前は美和子のいいところしか見えてなかったのに、結婚した途端に美和子が変わったと、あの時は思っていたが、そうではなかった。美和子が変わったんじゃない。わしの見方が変わったんだと、今になって気づいた。
これから二十五年前に行って、その当時のわしに離婚をとりやめるように忠告してやりたい。五十年前、胸をときめかせて美和子にプロポーズしたあの日のことを二十五年前のわしに思い出させてやりたい。
そこで「ハァー」とため息が出た。そんなことが出来るわけない。そう思いながら、知らない間に眠りについた。
浅い眠りから目を覚ますと、わしの目の前に二十五年前のわしが電車に座って居眠りをしていた。この後、こいつは家に帰って美和子に離婚を告げたのだ。それがわしの不幸の始まりだった。今からこいつを起こして、離婚することをやめさせよう。それが出来ればわしの人生は変わるはずだ。
わしは目の前に座る二十五年前の自分の肩を揺らした。
すると彼は目を覚ました。
「あんた、辛そうじゃな」
わしの人生を取り戻すために、わしは二十五年前の自分に声をかけた。
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