第五章 ぼくの願いがかなう時

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「いらっしゃいませ」  ぼくとお母さんは、店員さんのにこやかな声に出迎えられてカフェスペースの席に着いた。「ケーキ屋みのる」の店員さんは、みんな元気がいい。 「ご注文はいかがなさいますか?」  注文はお父さんが自ら取りに来てくれた。背の高いお父さんにはコックコートがよく似合う。背が高くて頭がつかえるからという理由でコック帽はかぶらず、カフェエプロンと同じこげ茶色のハンチング帽をかぶっている。毎日色を変えて着けているコックタイは、今日はえんじ色。ぼくが世界で一番好きなお父さんの姿だ。お父さんは、今日ぼくが来ることを知っていたのかな。  ぼくは誇らしい気持ちで注文する。 「『たけるセット』とふたつください。ぼくはオレンジジュースで、お母さんはホットコーヒー!」 「かしこまりました。少々お待ちください」  お父さんは他のお客さんと同じようにぼくを扱ってくれるので、ぼくは大人になった気分で嬉しい。ぼくも大きくなったら、お父さんみたいなケーキ職人になりたいと思う。  お父さんの作るケーキは、本当に美味しい。甘すぎることなく、いくつでも食べられそうだ。お母さんに言わせると「上品な甘さ」なのだとか。毎日のようにお父さんが持ち帰るお店の残りを食べていても、全く飽きない。ぼくは「たけるセット」のチョコレートケーキ、お兄ちゃんはいちごのショートケーキが好きだ。でも、お店の売れ筋は季節ごとに載っているフルーツが変わるフルーツタルトだ。  ぼくたちがたとえ店長の家族であっても、お母さんはきちんとお金を払って帰る。お会計の時、お父さんはぼくに訊いてくれた。 「ご満足いただけましたか?」 「お父さん、すっごい美味しかったよ!」  ぼくはつい大人になった気分を忘れて、いつもの調子で言ってしまった。お父さんは笑いながらも「ありがとうございました。またお待ちしております」と最後までケーキ職人の声でぼくたちを送り出してくれた。  帰りの遅いお父さんを待っていたら寝る時間になってしまうので、今日は晩ご飯もお母さんとふたりきりだ。献立はサバの味噌煮と肉じゃが、きんぴらごぼう、それにかきたま汁。どれもぼくが好きなもので、お兄ちゃんがちょっと苦手なものだ。お兄ちゃんが入院すると晩ご飯の献立も簡単なものになったり買ってきたお惣菜になったりするけど、今日は豪勢な食卓になった。ぼくは嬉しくなってはしゃいだ。 「わあ~、ぼくの好きなのばっかり! いただきます!」  晩ご飯の時にする話も、ぼくの話ばかりだ。お母さんは、小学校のことをたくさん訊いてくれた。ぼくもたくさん話した。担任のさおり先生のこととか、新しく友達になった航くんと凌くんのこととか。ちょっと気になっている美咲ちゃんのことは話せなかったけど。「尊は友達がたくさんでいいね」とお母さんはにっこり笑った。  お兄ちゃんの話もした。今頃旅館で何を食べているのかとか、熱は出ていないだろうかとか。お兄ちゃん、元気で修学旅行を楽しんでいるよね……。ぼくは胸がちくんと痛くなった。  お兄ちゃんの話題が出て一瞬表情が陰ったお母さんを笑顔にしなきゃと思って、ぼくは「剛志さんがいるから、きっと大丈夫だよ」と言った。今日一日お母さんは明るくしていたけど、じつはお兄ちゃんのことを心配していたんだ。ぼくも同じだよ、と言ってあげたかった。ぼくも今日はずっと空元気だったよ、と。でも、ぼくにはどうしても言えなかった。  そんなぼくとお母さんの気持ちを知ってか知らずか、お兄ちゃんは元気に修学旅行から帰ってきた。その晩の食卓には煮込みハンバーグとポテトサラダ、コーンスープが並んでいる。どれもお兄ちゃんの好物だ。ぼくとお母さんは、お兄ちゃんの話を聞きながら食べる。  お兄ちゃんの話はどれも面白かった。厳島神社の鳥居が神秘的だった話や、シカに追いかけられた話、旅館の食事は苦手なものが多かったけど全部食べた話、お風呂の時に見た剛志さんの身体がもうすでに大人みたいだった話、お兄ちゃんはこれらの話を生き生きと語ってくれた。  特にぼくが面白いと思ったのは、旅館で寝た時の話だ。同じ部屋の男子たちが騒ぐ中、お兄ちゃんは身体のことを考えて早く寝ようとした。そんなお兄ちゃんにつきあって剛志さんも一緒に寝ようとしてくれた。そこで終わったらただのいい話だけど、結局お兄ちゃんよりも早く寝ついた剛志さんのいびきがうるさくて、お兄ちゃんはなかなか眠れなかった。いびきをかきながらぐっすりと睡眠をとった剛志さんは、翌日はお兄ちゃんの荷物を持ってくれたりして、最後にはやっぱり頼れる剛志さんだったそうだ。
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