第五章 ぼくの願いがかなう時

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5 「カブトムシが来たぞ!」  待ちに待った剛志さんからの電話は、夏休みが始まって三日目にかかってきた。  ぼくとお兄ちゃんは翌日の午後、お父さんが持たせてくれたケーキを手に、剛志さんの家に向かった。いつもなら午前中は学校のプール開放に行くのでお昼ご飯を食べたあとのこの時間は眠くて仕方ないけど、今日は楽しみなので全然眠くならない。 「尊は本当にカブトムシが楽しみなんだね」 「うん! 昨日の夜、カブトムシの背中に乗る夢を見たんだよ」  お兄ちゃんが笑う。ぼくも笑う。お兄ちゃんが笑うとぼくも嬉しい。途中でケーキの箱を持つのを交代しながら、剛志さんの家まで歩いた。  剛志さんの家には、剛志さんしかいなかった。剛志さんの両親は共働きなんだそうだ。ケーキの箱を剛志さんに渡すと剛志さんは「早速食べようぜ」と嬉しそうに言ったけど、ぼくは早くカブトムシが見たいと駄々をこねた。剛志さんは「お前、やっぱりわがままだよな」と言いながらもケーキの箱を冷蔵庫に入れて、カブトムシのいるところに案内してくれた。「ごめんね、僕と尊はお父さんのケーキ食べ慣れてるから……」とお兄ちゃんが申し訳なさそうに言っている。  リビングの一角にカブトムシの飼育ケースが置かれてあった。ぼくとお兄ちゃんは駆け寄る。  土の中に大小さまざまな形の木、落ち葉、そして昆虫ゼリーの入ったえさ場。図鑑に載っている「カブトムシの飼い方」そのものの光景が飼育ケースの中に広がっている。でも、肝心のカブトムシが見当たらない。 「ねえ、カブトムシはどこ?」  剛志さんがにやりと笑って何か言おうとしたけど、その前にお兄ちゃんが声を上げた。 「あっ、いた!」  お兄ちゃんの指さす方を見ると、土に埋もれるような形でツノだけが見えた。 「土に潜ってるの?」 「惜しいな。隠れてるんだよ」  そう言って剛志さんは飼育ケースのふたを開けてカブトムシを掘り出し、掌に乗せてぼくたちに見せてくれた。 「こいつがカブトムシの『アキオ』。いとこの兄ちゃんがふ化させたんだ」  アキオという名前らしい。でも、どうしてアキオなんだろう。 「いい名前つけたね。秋まで長生きするといいね」  お兄ちゃんが感心する。なるほどなぁと思った。 「いい名前だろ? でもさ、父ちゃんが『イチロー』ってつけたがったり、母ちゃんが韓流ドラマに出てる何とかっていうやつの名前をつけたがったり、なかなか大変だったんだ。オレは野球も韓流ドラマも興味ないっつうのに。まあ、オレも『アキオ』か『アキヒコ』でだいぶ迷ったけどな」  ぼくは剛志さんの手の上にいるアキオをじっくり観察した。立派なツノと光沢のある背中は、まさに昆虫の王様たる風格だ。顔の方に目を向けると、触角がひくひく動いている。目はまるでぬいぐるみのそれのようで、どこを見ているのかわからない。アキオにはこの世界が、ぼくたちが、どう見えているのか訊いてみたいと思った。 「尊、手に乗せてみるか?」 「うん」  剛志さんはアキオをひょいとつかみ上げると、ぼくの掌に乗せてくれた。アキオの足が掌をひっかいて、痛いようなかゆいような変な感じがする。アキオはぼくの掌から腕の方に上がってきた。 「くすぐったい」  アキオはぼくのひじまで来ると、しばらく動きを止めたのち、羽を広げて飛んだ。 「あっ!」 「わっ! 飛んだ!」  ぼくは叫び、お兄ちゃんもびっくりしている。剛志さんはにやにやしている。アキオはしばらく空中を旋回し、剛志さんの掌にすっぽりと収まった。まるで手品みたいだ。その様子を見たお兄ちゃんは、ますますびっくりして剛志さんに訊いた。 「剛志くん、アキオに芸を仕込んだの?」 「まさか! カブトムシはあまり速く飛べないから、捕まえるのが簡単なんだよ」  それからお兄ちゃんもアキオを掌に乗せてもらったけど、あの何ともいえない感触に耐え切れなかったのか、すぐに剛志さんに助けを求めていた。  ぼくたちはアキオを飼育ケースに戻したあと、手を洗っておやつにした。「実と尊が来るって言ったら、母ちゃんがスイカ買ってきてくれたんだ」と言って、剛志さんは慣れた手つきでスイカを切り分けた。持ってきたケーキの箱を開けると、スイカを使ったレアチーズケーキが出てきたので、みんなで笑い転げた。レアチーズケーキの上に載っているスイカのムースには、チョコチップの種までついている。ぼくたちはスイカとスイカのケーキを交互に食べた。  ぼくは、今日のことを夏休みの絵日記にしようと思った。カブトムシのアキオとスイカとスイカのケーキ、笑っているぼくとお兄ちゃんと剛志さん。文字通り、絵になりそうだ。 「スイカって、カブトムシの好物なんだぜ」  そう言って、剛志さんは食べ終わったスイカの皮をアキオのえさ場に置いた。そういえば、カブトムシの匂いはスイカの匂いに似ている。 「ぼくのもアキオにあげていい?」 「おう! 入れてやってくれ」  ぼくとお兄ちゃんも、それぞれスイカの皮をえさ場に置いた。できればアキオがスイカを食べているところを見たかったけど、もうアキオは木と落ち葉の間に隠れていた。  剛志さんの家から帰ってからも、ぼくとお兄ちゃんはアキオの話題で盛り上がった。
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