第五章 ぼくの願いがかなう時

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6  八月の終わりに、小学校で夏祭りがあった。  ぼくはお兄ちゃん、剛志さんと夏祭りに行った。ぼくは白地にカブトムシの絵が描かれた甚平、お兄ちゃんは紺色の花火柄の大人っぽい甚平を着ている。途中で待ち合わせた剛志さんは、濃紺の縦じまの浴衣姿で現れた。渋い浴衣は背の高い剛志さんに似合っていて、大人の男の人みたいだ。あとでお母さんに聞いたら、しじら織りというそうだ。剛志さんは「暑い、暑い」と言いながら歩きにくそうにしている。 「ねえ剛志さん、アキオは元気?」 「おう。だいぶ弱ってきてるけどな。最近は昼間も起きてることが多いな。人間もカブトムシも、年取ったら昼夜逆転するんだな。でも相変わらずスイカはよく食べてるから、まだまだ大丈夫だよ」 「へえ~、すごいな」  昆虫と人間が同じだなんて、ぼくもお兄ちゃんも感心した。 「そういえば剛志くん、おばあちゃんは元気にしてる?」 「元気だよ。もうオレのことなんて全然わかんねえけどな!」  あっけらかんと剛志さんは笑った。ぼくのおじいちゃんやおばあちゃんがぼくのことを忘れてしまったら、ぼくはどんな気持ちになるのだろうかと思った。そして、よく知っている人を忘れていくのって、どんな気持ちになるんだろう。  小学校に着くと、中学校の吹奏楽部が演奏を始めるところだった。お兄ちゃんと剛志さんが来年から通う中学校だ。この春入学した一年生のデビューの舞台だと、司会の人が言った。その人が打楽器のパートに加わってトライアングルを構えると、音楽が始まった。ドラマの主題歌になっていた曲だ。ぼくたちは出店で焼きそばとラムネを買い、演奏を聴きながら食べた。ドラムを演奏している人が、とても上手でかっこよかった。  吹奏楽部の演奏が全部終わって、またぼくたちは出店をぶらぶら回ることにした。剛志さんは焼き鳥を買ったりわたがしを買ったり、食べてばかりだ。ぼくもお兄ちゃんも大食いではないので、さっきの焼きそばとラムネでお腹いっぱいになった。ぼくはスーパーボールすくいをした。お兄ちゃんは「あとでかき氷を買おう」と言って、ゲームは何もしなかった。  ぼくとお兄ちゃんがかき氷を買うと、当然のように剛志さんも買った。ぼくたちは「冷たい、冷たい」と言いながらかき氷を頬張る。勢いよく食べたら頭の後ろがキーンと痛くなった。いちごのシロップを選んだのでぼくは口の中が真っ赤になり、お兄ちゃんと剛志さんに笑われた。お兄ちゃんと剛志さんはそれを見越してか、ちゃっかり練乳を選んでいた。 「尊くん」  ぼくは突然聞こえた自分の名前に、真っ赤な口で笑ったまま振り返った。そこには同じクラスでちょっと気になっている美咲ちゃんの姿があった。ピンクのかわいらしい浴衣を着ている。髪もアップにしていて、大人っぽい美咲ちゃんにドキドキした。今のぼくは、口の中だけではなくて、顔や耳まで真っ赤になっているに違いない。  ぼくはあっと思ってすぐに口を閉じたけど遅かった。 「尊くん、口の中真っ赤」 「さ、さっき、いちごのかき氷食べたから……」 「じゃあね。あっちで夕夏ちゃんたちと待ち合わせしてるから」  美咲ちゃんはひらひらと手を振って行ってしまった。 「尊、さっきの子、好きなんだろ?」 「かわいかったよね」  ぼくはたちまちお兄ちゃんと剛志さんにからかわれた。  剛志さんと別れて、お兄ちゃんとふたりの帰り道。ぼくたちはいつものように手をつないで歩いている。  お兄ちゃんがぽつりとつぶやいた。 「尊は好きな子がいていいね」  お兄ちゃんには好きな子がいないのだろうか。そう思って訊いた。 「お兄ちゃんにはいないの?」 「お兄ちゃんは……。僕なんか恋愛対象にならないから……」  身体の弱いお兄ちゃんは学校でも「お世話される立場」で、みんなとの間に見えない壁があるように感じるのだそうだ。 「僕のことを対等に扱ってくれるのは、剛志くんだけなんだ」  そう言って、お兄ちゃんは寂しそうに笑った。ぼくはお兄ちゃんがそのままどこかへ行ってしまいそうな、不安な気持ちになった。胸がきゅうっと苦しい。ぼくはつないでいた手を離して、お兄ちゃんの腕にしがみついた。 「お兄ちゃん、お父さんに似てるからかっこいいよ。背だって、もっともっと高くなるよ」 「……ありがとう。尊」  ぼくとお兄ちゃんはそのまま寄り添って家まで帰った。夏の夜の香りが、ぼくたちをどこまでも優しく包んでいた。
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