第五章 ぼくの願いがかなう時

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7  夏休みが終わると、すぐに運動会の練習が始まる。  ぼくは体育が得意ではない。逆上がりはいつまでたってもできないままだし、跳び箱も怖くて足がすくんでしまって跳べない。かけっこをしても後ろから数えた方が早い。いつも体育の授業を見学しているお兄ちゃんが、ずっとうらやましかった。  だから運動会もあまり楽しみではないし、お父さんやお母さんも「うちの子はふたりとも運動はだめだからなぁ」と最初からあきらめている。お兄ちゃんだけが「尊、お兄ちゃんの分まで頑張ってね」と励ましてくれるけど、体育が苦手なぼくにとってはあまり嬉しくない。そういうお兄ちゃんは総合病院の主治医の先生に相談した結果、組体操の動きの少ないところだけ参加してもいいと言ってもらえて、嬉しそうにしていたけど。 「お兄ちゃんはいいよな、できなくて当たり前だから」とぼくはいじけていた。それに比べて健康なぼくは……。ぼくは健康だから、運動会で少しでもいいから活躍して家族を喜ばせたい。家族を喜ばせるのは、健康なぼくにしかできないことなんだ。でもどうやって?  ぼくたち一年生の種目は、玉入れとダンス、そして50メートル走。玉入れはみんなでやるから、特に誰かが目立つ種目ではない。ダンスも得意ではないけど、みんなに合わせて踊るくらいはぼくにだってできる。  問題は50メートル走だ。幼稚園の頃から苦手だった。いつもスタートのピストルの音でびっくりして出遅れるし、一生懸命走っているつもりなのに遅い。でも家族を喜ばせるには、50メートル走を頑張るしかない。  運動が苦手なぼくが速く走れるように練習するには、誰かの助けが必要だ。しかも家族には内緒なので、お父さんやお母さんには頼れない。ましてやお兄ちゃんにも。誰か練習を手伝ってくれないかと考えた時、頭に思い浮かんだのはやっぱり頼れる剛志さんだった。  お兄ちゃんが学校から帰ってくると、ぼくは友達と遊んでくるとお母さんに言って、家を出た。そのまま剛志さんの家に向かう。  ひとりで来たぼくを見て剛志さんは驚いた。ぼくはわけを話した。最初剛志さんは「実に訊けよ。あいつ物知りだから、本とかで調べてくれるんじゃないのか?」と面倒くさそうだったけど、ぼくは家族には内緒だからと食い下がった。 「ったく、尊は本当にわがままだな。わかったよ、つきあってやるよ」 「やったあ!」  ぼくはガッツポーズをして、よろしくお願いしますと頭を下げた。 「で? オレは何をすればいいの?」 「だから、速く走れる方法、教えて!」 「そんなの知らねえよ。どうやったら速く走れるかなんて、考えたことねえし。まあ、一度走ってみろよ」  公園で剛志さんの特訓が始まった。  剛志さんが「よーい、ドン」と号令をかけてくれて、ぼくは走り出す。50メートルがどこからどこまでかすらわからないから、剛志さんが「このあたりで50ちょいかな。ちょっと長めに走ったらいいんじゃないか」と言った地点がゴールだ。  ぼくはぼくなりに一生懸命走ったつもりだったけど、剛志さんは腕を組んで眉間にしわを寄せ、首をかしげている。 「何か、違うんだよなぁ」 「どこが?」 「うーん。どこがって言われてもなぁ。そうだ、もっと腕振って走れよ」 「うん」  そのまま五回ほど続けて走ったら、すっかり疲れてしまった。 「どうだ? ちょっとは速くなった気がするか?」 「よくわかんないよ……。ねえ剛志さん、明日もお願い!」 「えー? 明日もかよ。お前、相変わらずわがままだなぁ」  剛志さんには何度もわがままだと言われているけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それどころか家ではわがままは言えないから、むしろ嬉しかった。お兄ちゃんが健康だったら、きっとこんな感じなんだろうな。 「ねっ、お願い!」 「……わかったよ」  結局、剛志さんは「わがままだ、わがままだ」と言いながらも、ほぼ毎日ぼくの練習につきあってくれた。  日によって剛志さんの練習メニューはさまざまだった。ぼくの走るフォームをチェックしてくれたり、「オレを抜かそうと思って走れ」と言って一緒に走ってくれたり、鬼ごっこみたいにぼくが剛志さんに追いかけられたり。遊びみたいな練習だから、ぼくはだんだん走るのが楽しくなってきた。  明日がいよいよ運動会という日。ぼくと剛志さんは鬼ごっこみたいに公園の中をぐるぐると走り回った。走り疲れて剛志さんとふたり、ベンチに腰をかけた。ふたりともはあはあと息を切らせている。 「尊、だいぶ走るの速くなったんじゃないか?」 「そ、そう…かな」  剛志さんの呼吸はすぐに元に戻ったけど、ぼくはまだはあはあしんどい。 「でも、剛志さんと遊べてぼく、楽しかった」 「……オレ、別に遊んでたわけじゃねえし」 「お兄ちゃんとこんなふうに遊びたかったな。ぼく、剛志さんみたいな元気なお兄ちゃんがよかった……」  ぼくは剛志さんがいつものように笑って「尊はわがままだな」と言うのを、少し期待していた。でも。 「バカ言うな。お前の兄ちゃん、実はな、六年生になってから一度も休み時間にドッジボールをしていないんだ」 「どうしてか、わかるか?」と剛志さんは、ぼくの目を覗き込んで続ける。ぼくは答えられず、目をそらして黙り込んだ。 「尊と毎日一緒に学校に行くためだよ」 「えっ?」  ぼくは頭を殴られたようなショックを受けた。 「ちょっとでも無理をして熱出すといけないからって、毎日教室で本ばかり読んでんだよ、実は。尊のためにな」 「そういえばお兄ちゃん、六年生になってから一日しか休んでない……」  ぼくの目からぽろぽろと涙がこぼれてきた。 「お兄ちゃん……」 「わかったか、尊。お前の兄ちゃんは、実だけなんだよ。だから、もう二度とあんなこと言うな」  とても優しい口調の剛志さんだった。剛志さんはぼくの髪をくしゃくしゃとなでてくれた。しばらくそうしていたけど、剛志さんは立ち上がって言った。 「よし! 最後、オレと競争するぞ!」 「うん」  ぼくも涙を拭いて立ち上がった。  地面につま先でスタートとゴールの線を描き、剛志さんの号令でスタートした。本気で走る剛志さんには全然追いつかない。でも、全速力で風を切って走るのは、とても気持ちがよかった。  走り終えてはあはあと息を切らせているぼくに、剛志さんはにっこり笑って言った。 「尊、速くなったな! 実もきっと喜ぶぞ」 「うん!」  その日の晩ご飯はとても美味しくて、ぼくはご飯を二杯もおかわりした。お母さんもお兄ちゃんもびっくりしていた。
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