第五章 ぼくの願いがかなう時

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8 「続いてプログラム九番、一年生による50メートル走です。先ほどはかわいいダンスを見せてくれた一年生が、今度は力いっぱい走ります。大きなご声援をお願いします」  入場門で整列していたぼくは、お兄ちゃんのアナウンスで背筋をすっと伸ばした。運動会で活躍できないお兄ちゃんは、放送係に立候補した。それで、朝からずっと放送席でアナウンスをしているのだ。マイクを通したお兄ちゃんの声を最初聞いた時は、何だか照れ臭かった。でもすぐに慣れた。けっこういい声をしてるんじゃないかな、お兄ちゃん。  朝からいい天気だ。青く高い空には、刷毛で描いたような雲がすうっと流れている。  剛志さんの選手宣誓で始まった運動会は、もうプログラムの半分を消化した。一年生のダンスはプログラムの最初の方だったので、身体を動かしていい感じに緊張がほぐれた。もし50メートル走が先だったら、ぼくは緊張でがちがちになっていただろう。  行進曲に合わせて、50メートル走のスタート地点まで更新する。お客さんがみんなぼくを見ている気がして、落ち着かなくなってきた。「大丈夫、大丈夫」とぼくは行進曲のリズムに合わせて、心の中で何度もつぶやく。  とうとうぼくの順番が回ってきた。一緒に走るのは四人。授業で練習した時は、いつもぼくはビリだった。でも、剛志さんに特訓してもらったから速くなっているはず……。  スタートラインに立ち、ぼくは放送席のお兄ちゃんを見た。お兄ちゃんは「大丈夫」というふうにうなずいてくれた。そうだ、ぼくはお兄ちゃんのために頑張るんだ。そう思ったら、胸のざわざわが少し消えた。 「用意」と先生の声がかかり、スタートの構えを取る。ピストルが鳴った。やっぱり一瞬出遅れた。でも他の三人も出遅れた気配がする。ぼくは大きく手を振ってがむしゃらに前を目指す。周囲から音が消える。大丈夫、きっといける。前に抜きんでた子の背中を追いかける。その背中が剛志さんの背中と重なった。絶対に追いついてやる。思い切り腕を振った。  結局、ぼくは追いつくことはかなわなかった。タッチの差で二等。でもぼくは走り切った満足感で胸がいっぱいだった。全然悔しくなかった。汗をかいた顔に風が当たり、気持ちがよかった。  ふと我に返ると、お客さんも児童も先生もみんな笑っていた。ぼくの走りがそんなにおかしかったのだろうか。航くんと凌くんが駆け寄ってきてぼくに言った。 「尊くんのお兄ちゃん、面白かったね!」 「放送係なのに『尊、頑張れー!』って」  お兄ちゃん、そんなこと言ってたんだ……。一生懸命に走ったから、全然聞こえなかった。お兄ちゃんの方を見ると、真っ赤な顔で照れ笑いをしていた。  夜、家族四人で手巻き寿司の晩ご飯を食べたあと、お父さんの特製ケーキを食べながら運動会のビデオを見た。特製ケーキに載っている大きなプレートには、走っているぼくとマイクを持っているお兄ちゃんの絵が描かれてあった。絵の上手な職人さんが描いてくれたそうだ。プレートを割るか割らないかでひと悶着あったけど、「今日は尊が二等を取ったんだから、尊が食べなよ」とお兄ちゃんが言ってくれて、結局ぼくがひとりで食べた。  お店を店員さんに任せて来てくれたお父さんが撮ってくれたビデオは、とても面白かった。めったに旅行には行けないけど、学校行事には必ず来てくれるお父さんだ。  ぼくの50メートル走には「尊、行け行け行けー!」というお父さんの声と「尊、頑張れー! あっ、失礼しました。弟の尊が頑張りました」というお兄ちゃんの迷アナウンスがばっちり録音されていた。  一方お兄ちゃんの組体操は、お兄ちゃんしか映っていなかった。だから、ほとんどの場面がお兄ちゃんが体育座りで待機している静止画像で、時々お兄ちゃんも演技に加わるというものだった。こちらには「実はただ座っているだけで絵になるなぁ」というお父さんのつぶやく声が入っていた。  久しぶりにお兄ちゃんとお風呂に入った。剛志さんの身体はもう大人みたいだそうだけど、お兄ちゃんはまだ子どもの身体だ。お兄ちゃんのお腹には、小さい頃に受けたという手術の傷跡が残っている。  ふたりで湯船につかりながら、お兄ちゃんが言った。 「お兄ちゃん、尊のおかげで放送係に立候補できたんだよ」 「ぼくのおかげ?」  引っ込み思案で自分の思っていることをなかなか口に出して言えないお兄ちゃんにとって、放送係に立候補することは難しかったに違いない。でも、ぼくのおかげってどういうことだろう。 「うん。尊が剛志くんと50メートル走の練習頑張ってたから」 「えっ。お兄ちゃん、知ってたの?」  家族に内緒で毎日のように家を空けるぼくが不審に思われないように、剛志さんがお兄ちゃんにそれとなく言っていたらしい。剛志さん、かっこよすぎるよ。 「アナウンスをすることで少しでも尊を応援できたらなって思ったんだけど、お兄ちゃん、ちょっと熱くなりすぎた」  そう言ってお兄ちゃんはえへへへと笑った。あの迷アナウンスでクラスの風向きが変わり、「中瀬ってちょっと面白いな」という位置づけになったのだとか。お兄ちゃん、あれは迷アナウンスじゃなくて名アナウンスだったね。  ぼくもお兄ちゃんに言わなければならないことがある。 「お兄ちゃん、毎日一緒に学校に行ってくれてありがとう」  ぼくは泣きそうになったので、お兄ちゃんに向かって湯船のお湯をかけた。お兄ちゃんもお湯をかけ返してくる。そのうち楽しくなり、ぼくはお湯をばしゃばしゃ叩いた。お母さんが「のぼせるから、そろそろ上がりなさい」と声をかけにくるまで、ぼくたちはお湯をかけ合っていた。  入学して初めての運動会。精いっぱい頑張って、家族の愛に包まれて、たくさん笑って、最後はしんみりの、とてもいい運動会だった。
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