第五章 ぼくの願いがかなう時

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9 「剛志くんが、アキオの子どもを見にこいだって」とお兄ちゃんが嬉しそうに学校から帰ってきたのは、十一月の初めだった。  運動会での名アナウンス以来、お兄ちゃんは生き生きとしている。相変わらず友達は少ないけど、これまでのように変に特別扱いされることがなり、普通にクラスの一員として受け入れられるようになったからだ。その上、来週の音楽会の合奏で指揮者をすることになり、張り切っている。  ぼくとお兄ちゃんは、色づき始めた街路樹を横目に見ながら、手をつないで剛志さんの家に向かって歩いている。 「ねえお兄ちゃん、アキオの子どもは何匹かな?」 「本には、カブトムシのメスは多いと百個くらい卵を産むって書いてあったけど、どうだろうね」 「すごいね! 百匹のカブトムシかぁ」  アキオは夏休みが終わるのを待っていたかのように、九月に入ってすぐ寿命を終えた。今度は幼虫から育ててみたいと思った剛志さんは、八月の終わりにメスのカブトムシを入れてお見合いさせた。ぼくはこのことをお兄ちゃん経由で聞いていた。  あのアキオの子どもかぁ。アキオが力尽きたと聞いた時はぼくもお兄ちゃんも悲しんだけど、子どもが見られると思うとわくわくする。 「おう、来たか」  剛志さんが家に入れてくれた。飼育ケースは、今は玄関の靴箱の上に置かれてあった。前と同じ飼育ケースに、夏休みの頃はアキオの遊びスペースがあったけど、今はケースいっぱいに土が入っている。ちょうど側面に幼虫が丸まっているのが見えた。もぞもぞと動いている。 「剛志さん、ここにいるね」 「いるだろう? アキオとアキコの子どもが、この中にちょうど十匹いるんだ」  メスにはアキコと名づけたみたいだ。お兄ちゃんが剛志さんに訊いた。 「交尾してるところは、見た?」 「いいや。オレが寝ている間に交尾してたみたいだ」  それにしても、と剛志さんは続ける。 「こんな暗い土の中で見えないのに、幼虫同士ぶつかったりしないのが不思議なんだよな。こいつら、けっこう動き回るのに」  お兄ちゃんは腕を組んでしばらく考えた。 「あっ、僕、本で読んだんだけど、カブトムシのさなぎは幼虫が近づいてくると振動して『近づくな!』って合図するらしいよ。だから、幼虫同士も何か合図を送り合ってるのかもしれないね」 「さすが実! よく知ってるな」  ぼくもお兄ちゃんの物知りにはいつも驚かされる。ぼくも疑問に思ったことを訊いた。 「幼虫は、何を食べるの? ゼリーもスイカもないけど」 「土を食べるんだってさ。で、この丸いのが幼虫のフン」  剛志さんが飼育ケースのふたを開けて、丸いフンを取り出して見せてくれた。  音楽会の日がやってきた。  朝からビデオカメラの充電をしているお父さんに「今度はビデオ撮ってる時にしゃべらないでね」と声をかけてから、ぼくとお兄ちゃんは家を出た。今日もお父さんは、お店を休んで音楽会に来てくれる。 「お兄ちゃんは緊張しないの?」 「うーん。それほど緊張しないよ。運動会の時みたいに、声を出さなくていいから」  そう言ってお兄ちゃんは笑った。 「尊は? 緊張する?」 「ううん。ぼくは楽しみ!」  お兄ちゃんはぼくの手をぎゅっと握ってくれた。  出演の順番は、一年生から始まって二年生、三年生……というふうに学年順だ。だから、ぼくたち一年生の出番が終わると、あとは座ってのんびりとお兄ちゃんの学年まで待つだけだ。一年生はアニメ映画の主題歌の合唱と合奏だった。ぼくたちは元気いっぱい歌い、鍵盤ハーモニカを演奏した。  二年生、三年生と学年が上がるにつれて、演奏する楽曲も難しくなったり、混声合唱になったり、使われる楽器の数が増えたりしていく。来年は鍵盤ハーモニカ以外の楽器を演奏してみたいなぁと思いながら、上級生の演奏を聴いた。  いよいよお兄ちゃんたち六年生の出番になった。  まずは混声合唱。家でよくお兄ちゃんが歌っていたからぼくも歌詞を覚えてしまったほどだ。でもお兄ちゃんのパートはテノールなので主旋律ではない。今日初めてちゃんと聴いて、こんなに美しい曲だったのかと感動した。優しく流れるようで、それでいて力強い合唱が終わると、次は合奏だ。  楽器のセッティングが終わり、六年生がそれぞれ持ち場についた。剛志さんはその他大勢のリコーダーだ。そういえばあまり音楽は好きじゃないと言ってたな、剛志さん。  指揮者のお兄ちゃんが登場した。この日のために新しく買った白いシャツとベージュのチノパンがよく似合っている。お兄ちゃんが指揮台に上がる。背の低いお兄ちゃんだけど大きく見える。指揮棒を構え、すっと右上に滑らせて音楽が静かに始まる。  ピアノの出だしから始まってリコーダー、鍵盤ハーモニカへと旋律が移りゆくこの曲は、曲名通り大きな川のようだ。ぼくは舟に乗ってゆったりと川を下っていく様子を想像した。木琴や鉄琴、鈴などが、川岸に咲く花のように旋律に彩を添える。やがて曲はクライマックスを迎える。そしてお兄ちゃんの開いた手がゆっくり閉じられるとともに、静かに演奏が終わった。  お兄ちゃんが指揮台から下り、客席に向かってお辞儀をする。ぼくは両手が痛くなるくらいの拍手を、お兄ちゃんと六年生に送った。ぼくと目が合ったお兄ちゃんは、ふっと緊張が解けたように笑った。  六年生の中に戻ったお兄ちゃんは、数人のクラスメイトに囲まれて肩を叩かれたりしていた。剛志さんには、いつもと同じように髪をくしゃくしゃとされている。お兄ちゃんも笑顔だ。  翌日お兄ちゃんが熱を出して休んだのは、言うまでもない。この日ばかりは、ぼくもお兄ちゃんには家でゆっくり寝ていてほしいと思った。
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