第五章 ぼくの願いがかなう時

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10  一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。  三学期の始業式に、担任のさおり先生が「三学期も、一日一日を大切に過ごしましょう」と言って、この言葉を教えてくれた。  お兄ちゃんと一緒に学校に通えるものあとわずかだ。ぼくはあとわずかだと思ってしまうけど、お兄ちゃんは「まだ三か月も一緒に行けるよ」と言う。  この時期、やっぱり心配なのはお兄ちゃんの体調だ。去年せきの風邪が流行った時には、お兄ちゃんは気管支炎で入院した。兄弟そろってインフルエンザにかかったこともある。ぼくも高熱が出て苦しかったけど、お兄ちゃんは肺炎を併発して入院した。その時はお父さんがお店の仕事を抜けて、ぼくの看病をしてくれた。食欲がないぼくは、「ケーキ屋みのる」のプリンばかり食べていたのを覚えている。そのせいでインフルエンザが治ってからしばらくは、プリンを見るのが少し嫌になってしまった。  ぼくとお兄ちゃんは風邪の予防として手洗いやうがいを欠かさないのはもちろんのこと、お母さんが作ってくれるはちみつレモンを飲んでから毎朝登校している。酸っぱくて甘いはちみつレモンを最初ぼくは苦手だったけど、三日も飲んだら慣れた。そのおかげか、今年のお兄ちゃんは風邪も引いていない。もちろんぼくも元気だ。  二月になり、ぼくの関心ごとはもっぱらバレンタインだ。クラスでも女子たちがひそひそと話をしているので、何だか落ち着かない。美咲ちゃんには誰かチョコを渡す人がいるのだろうか。ぼくにくれたらお返しは「ケーキ屋みのる」のクッキーなのになぁと思うけど、親の七光りを使うのはアンフェアだ。お兄ちゃんはこれまでもらったことはないようで、無関心を装っているけど、少し寂しそうにしている。意外とモテるのが剛志さん。身体も大きくてこわもてだけど根は優しいので、一部の女子には人気が高い。剛志さんのもとには、毎年コンスタントにチョコが届くそうだ。  この前二月になったと思ったら、もう十四日。バレンタインデーだ。  空はきれいに晴れ渡っているけど、今朝も刺すような冷たい風が吹いている。ぼくとお兄ちゃんは、手袋越しにお互いの体温を交換しながら登校する。お兄ちゃんは朝から普通にしているけど、手袋を通して緊張が伝わってくるようだ。もしかしてお兄ちゃん、好きな人ができたのだろうか。それとも、夏祭りの時から好きな人がいるのだろうか。ぼくはもう一度訊きたかったけど、またお兄ちゃんは寂しそうな顔をしそうなのでやめておいた。  学校にチョコを持っていくのは禁止されている。だからぼくは授業が終わるとそそくさと家に帰った。じきにお兄ちゃんも「寒い、寒い」と言いながら帰ってきた。お母さんが温かいココアを作ってくれたので、昨日一足先にお父さんからもらった「ケーキ屋みのる」の特製トリュフを食べた。中瀬家のバレンタインは、お父さんが家族それぞれにチョコをくれるのだ。お母さんが「今日はふたりとも黙り込んじゃって。バレンタイン、気にしてる?」と茶化してきた。 「そんなんじゃないよ」とお兄ちゃんが言った時だった。インターホンが鳴った。「尊にだね」とお兄ちゃんに言われて、僕はドキドキしながら玄関のドアを開けた。  そこに立っていたのは、六年生の女の子だった。児童会で役員をしている人だから、ぼくも知っている。確か田島さんという人だ。いつものはきはきした感じとは違って、恥ずかしそうに小さな声で「中瀬君、いる?」と訊いてきた。ぼくはお兄ちゃんを呼びにいった。  お兄ちゃんが玄関先にいたのは、ほんの数十秒間だった。すぐにダイニングに戻ってきて、もらったチョコを両手で包むように持って大事そうに眺めている。 「ねえお兄ちゃん、告白とかされたの?」 「そんなのないよ。『食べて』って言われただけ」  それでもお兄ちゃんは嬉しそうにしている。「尊はもらえるかな?」とお母さんがぼくを見て笑った。  ぼくはダイニングテーブルで宿題をし、お兄ちゃんはさっき田島さんからもらったチョコを食べようか迷っている。「やっぱりお父さんに見せよう」とお兄ちゃんは言い、チョコを戸棚にしまった。  インターホンが鳴った。次こそぼくかも。ぼくは玄関へと走った。ドアを開けると、そこには美咲ちゃんと夕夏ちゃんがいた。 「尊くん! これ、ふたりで作ったの。食べてね」  そう言って美咲ちゃんがきれいにラッピングされた包みを手渡してくれた。 「ありがとう」  ぼくはそう言うのが精いっぱいだった。ふたりとも「じゃあね」と言って帰っていった。  ダイニングに戻ったぼくは、お兄ちゃんとお母さんに冷やかされた。ぼくもお父さんに見せてからにしようと思い、包みを戸棚にしまった。  翌日お兄ちゃんから、剛志さんは四つももらったと聞いてびっくりした。 「行く」も「逃げる」も終わり、来なくていいのに「去る」が来た。いよいよお兄ちゃんと一緒に登校できるのもあと十日ほどだ。相変わらずお兄ちゃんは呑気に「家族なんだから、ずっと一緒なのに」と言うけど。  始まったばかりの三月の空の下を、いつものように手をつないで登校する。「お兄ちゃん」とぼくは呼んだ。「ん?」とお兄ちゃんが答える。 「風邪、引かない?」 「引かないよ。毎朝お母さん特製のはちみつレモン飲んでるでしょ?」 「お兄ちゃん、手袋、脱ごうよ」 「うん、いいよ」  ぼくは左の手袋を、お兄ちゃんは右の手袋を、それぞれ脱いだ。何も着けていないお兄ちゃんの手はやっぱり冷たい。 「尊、手袋なくしちゃだめだよ」 「うん。お兄ちゃん、寒くない?」 「尊の手は温かいから大丈夫。ほら、太陽の光もちょっとずつ強くなってるよ。それに、風も前より柔らかい」  ぼくとお兄ちゃんは立ち止まって、目を細めて太陽に手をかざした。  お兄ちゃんたち六年生が学校で卒業式の練習をしている間、ぼくたち在校生は六年生を送る会の練習をしている。各学年が合唱をして卒業生を送り出すのだ。  六年生を送る会は、卒業式の前日。卒業式には一年生は出席しないので、つまりその日がお兄ちゃんと学校に行ける最後の日になるというわけだ。ぼくは一年生の合唱が上手になるにつれて、寂しい気持ちになっていった。  そんなぼくを見て、さおり先生が「合唱の前に一言、六年生に向かって挨拶してみる?」と言ってくれた。ぼくはふたつ返事で「します」と引き受けた。お兄ちゃんや剛志さんに伝わるよう、気持ちを込めて挨拶の文章を考えようと思った。  そして迎えた六年生を送る会当日。「日本列島は移動性高気圧におおわれ、穏やかな晴れの日が続くでしょう」と天気予報で言っていた。ぼくの住む神戸市も例外ではなく、朝からすがすがしく晴れている。よかった、お兄ちゃんと一緒に登校できる最後の日が雨じゃなくて。雨だったら手をつなげないから。  ぼくが何となく黙って歩いていたら、お兄ちゃんが言った。 「尊、何考えてるの?」 「合唱のこと」  ふとお兄ちゃんが足を止め、ぼくの顔を見て言った。 「ね、尊。アキオの子どもがさなぎになったら、見せてもらいにいこう」 「……うん」 「お兄ちゃんは、中学生になっても今と何も変わらないよ」 「うん」  ぼくの手をぎゅっと握り、お兄ちゃんは笑った。  学校に着くと、いつものようにお兄ちゃんは下足室まで送ってくれた。別れ際、ぼくは大きな声で言った。 「お兄ちゃん! 毎朝一緒に行ってくれてありがとう!」  恥ずかしかったので、ぼくはお兄ちゃんの顔を見ずにくるりと踵を返して教室へ走った。 「尊くん、ご挨拶頑張ってね!」 「応援してるからね」  航くん、凌くん、美咲ちゃん、夕夏ちゃんが口々に励ましてくれる。六年生を送る会の、一年生の出番はもうすぐだ。  二日前のホワイトデーには、美咲ちゃんと夕夏ちゃんにそれぞれ「ケーキ屋みのる」のクッキーをお返しとして渡した。ふたりともとても喜んでくれて、ぼくも嬉しかった。  ぼくは緊張して右手と右足が一緒に出そうだった。紙に書いた挨拶文を読むだけだけど、マイクを通して読むのは初めてだから緊張する。それも全学年を前にして。運動会の時のお兄ちゃんはすごかったな、と今更ながらに思う。  マイクの前に立ってさおり先生に高さを調節してもらっている間、ぼくはお兄ちゃんを探した。でも背の低いお兄ちゃんは、どこに座っているかわからなかった。不安だったけど、四月から小学校にお兄ちゃんはいない。ぼくひとりでも頑張らなきゃと思い、大きく息を吸い込んで挨拶を読み始めた。 「ぼくは初めての小学校で、わからないことがたくさんありました。でも、いつも六年生のお兄さんやお姉さんが助けてくれました。朝、毎日手をつないで学校に行ってくれたこと、運動会の練習を助けてくれたこと、ぼくはずっと忘れません。中学生になっても、頑張ってください。一年一組、中瀬尊」  一気に読み上げた。拍手をもらってほっとした。ぼくが一年生の並ぶひな壇に戻ると、合唱が始まった。  六年生の合唱はお兄ちゃんが指揮者だった。最初お兄ちゃんは、「卒業式、休みたくないから……」と言って辞退したけど、「実が卒業式休んだら、クラスみんなで家まで卒業証書持っていってやるよ」という鶴の一声ならぬ剛志さんの一声で決まったそうだ。「誰も反対する人がいなかったんだよ」と、お兄ちゃんは嬉しそうだった。  お兄ちゃんの指揮者姿も、二度目ともなればさまになっていて、余裕がある感じだ。お兄ちゃんが伴奏のピアノに向かって指揮棒を振る。ピアノを弾いているのは、田島さんだった。  ホワイトデーの日、お兄ちゃんも「ケーキ屋みのる」のクッキーを持って田島さんの家に行った。クッキーを渡したあと、公園で少し話をしたそうだ。田島さんは受験をして私立の中学校に通うことが決まっている。今のように毎日会えないけど、夏祭りの時などに会えたらいいね、と話したそうだ。「別に、つきあうとかじゃないよ」と、お兄ちゃんは照れ笑いをしていた。  全てのプログラムが終了すると、在校生は花道を作って六年生を拍手で送り出す。ぼくの前を通る時、お兄ちゃんは「尊、かっこよかったよ」と言ってくれ、剛志さんはくしゃっと髪をなでてくれた。
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