潮騒・一足の革靴・蕎麦

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 月が煌々と夜暗に荒ぶる眼下の水面を照らしていた。  落下防止の柵を越えた今。あと数歩踏み進めれば崖の下に真っ逆さまに落ちて死ぬことができる。この断崖に打ち付けられて死ぬのか、あの白いあぶくに飲まれて溺れて死ぬのか。どちらにせよ苦痛を伴くことは免れそうになかった。  それでも男はこの現実と言う名の無間地獄から逃れるためならばと、希死念慮の一念発起に突き動かされるままこの自殺の名所に訪れたのだった。  悔いるほど良い人生ではなかった。ただ、終ぞ人肌の快楽を得ることが叶わなかったことは惜しくもあった。  壮年と見紛う老けた顔とくたびれきったスーツ姿には似合わないピカピカに磨かれた革靴が、男の纏う淀んだ空気を押しのけるように自信満々に月光を反射していた。この場所までお前の足を動かしてやったのはこの俺たちだとでも言いたげに、主である男よりも存在感を放っていた。  なあに、最後の金で俺たちを磨いてくれた礼だ。最期まで付き合ってやるぜ。  男の脳内で人格を付与された革靴は崖の向こう側へと男を運ぶべく、一歩踏み出した、まさにその時。  ズゾゾゾゾと、どことなく品のない、なにかを啜り上げる音がした。それも重なるように二つ、似たような音が。  いつからそこにいたのか、見れば数メートル離れたベンチに、いかにも不良然とした風貌の若い男が、コンビニで買ったと思しきとろろ蕎麦を食べていた。 「……」  それだけならば、あるいは希死念慮の男は歩みを止めることなく望みを完徹したかもしれない。  しかし、外灯の下、蕎麦を啜る男の股座で頭を前後させてペニスを啜る金髪の女まで視界に入ってしまえば、否が応でも足を止めざるを得なかった。その上、女は視線を希死念慮の男に向けたまま口淫に勤しんでいるのだ。そのような状況に出くわしてなお行動を続行させるようなねじの外れ具合であれば、そもそも自殺などと真っ当な行動様式には至らない。 「な~に止まってんだよ、おっさん。早くそっから落ちろよ」  蕎麦を啜る男からの予想外の煽りに、希死念慮の男は立ち止まるだけに留まらず、向き直って体をカップルの方に向けるに至った。 「そうだよ、早く落ちなって」  ちゅぽんっ、と蕎麦を啜る男の陰部から口を離すやいなや、陰茎を啜る女も煽りに加勢する。 「「死~ね! 死~ね! 死~ね! 死~ね!」」  ハーモニーを奏でるカップルのコールに、さすがに希死念慮の男も感情的になった。 「なん、何なんだお前たちは! 初対面の相手に対して!」 「おっさんこそ何キレてんだよ? 死ぬつもりだったんだろ? だったら俺らが後押ししたところで何の問題があるんだよ」  希死念慮の男は正論じみて聞こえる蕎麦を啜る男の反論に言葉を詰まらせたが、 「そういう問題じゃない! 大体どうして人が自殺しようとしてるのに平然と そんな、そんなことしながら見てるんだ!」 「え~だって人の不幸は蜜の味っていうじゃん。シャーデンフロイデってやつぅ? ウチら幸薄な人間見ながらヤるの好きなんだよねぇ~」 「それに食いながらヤると腹もチンコも満たされるんだわ」  陰茎を啜る女は陰茎を啜ったその口で蕎麦を啜る男の口に舐るようにキスをした。 「そういうわけだから早く死んでくれねぇ?」  とろろか何かを口の周りに粘つかせながら蕎麦を啜る男は煽り足す。 「ふざけるな! 俺はお前らみたいにふざけた奴らのせいでこんなとこまでくる羽目になったんだぞ!」 「いや知らんし。ウチらはただ薄幸な人の顔見てメシウマすんのが好きなだけだし」  そこで希死念慮の男の堪忍袋の緒が切れた。 「こっちだってお前らのことなんて知ったことか! 止めだ止めだ! 誰がお前らみたいなクソ野郎どものためになんか死んでやるか!」  それだけ言い残すと、希死念慮の男は生き生きとした憤怒の表情でその場を去っていった。 「あ~また死ななかったんですけどぉ。ていうか何あの態度ぉ、チョ~ムカつく」  希死念慮の男の耳にはもはやその声は聞こえていなかった。  今まで覚えのない強烈な感情が泡立つ満ちていく音を彼はただ感じていた。
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