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彦根が人差し指をピンと立てるのは、取引の合図。そう教えてくれたのは誰だったか。
今、彼が指を持ち上げたことで場に溜まる生ぬるい空気が掻き回されたような気がする。
「こちらで片付けます」
呑まれて、そのまま彼の思うままにされることは……何よりも癪だ。呑まれるな。
ただ漠然とそう思った。
「あら、そう…………」
伊庭はどうしてそう思ったのか分からない。この男に勝ちたいのか、認められたいのか。それとも、自分たちの領域に入られたことが不満なのか。
「はい」
「つまんない」
は、と息を吐き。そう言った彼の顔が見たいと伊庭は伏し目がちに首を傾けた。
「何ですか」
「あー、ごめんね怒んないでよ……そうじゃなくってさァ、なんて言うかなぁ?……大変ならこっちも協力するのにーって事?」
彦根はただ唇を尖らせて、器用に目玉だけで伊庭を射止める。その唇は乾燥して皮がめくれていて、ジリジリと暑い日が彼のデコを照らす。
「……たこちゅう」
カッと目が開いて、彫像が首を動かす。
かわいーこと言うねぇ。と、それだけ呟いてまた興味をなくしたように彦根は前を向いた。
「や、この学校って広いでしょ?だから風紀だけなら色々キツくねぇーっ?て、思ったの」
「……ああ」
思ったよりもつまらない理由だ、彼の事だからどうせちゃんちゃらおかしい理由が出てくるものとばっかり。
だか期待はずれとも言えないので、伊庭は気の抜けた炭酸のような返事を返した。
「ちぇっ、なんだよぉ」
彦根は伊庭のツレない返事に悪態を着いて、あらかさまにがっかりした顔をする。
「はぁ、手伝いなんかいりませんよ」
「せっかく可愛い後輩を助けてやろーって」
「は、あはは」
「……思ったのに」
この人は、俺に恩を売っているつもりなのか。
伊庭は肩の力を抜いた。随分と緊張していたのやもしれない、汗が吹き出して嫌だった。
できたのは出来心。脳みそはすでに太陽に溶かされて血液の中だ。
「俺が可愛くて…か弱い存在に見えます?」
ふざけて、そう聞いてみた。
彦根が驚いたように瞬きをした。
その、大きく開いた瞳孔が猫を思わせる。
伊庭は彦根の瞳を覗き返して……やがて、彼の瞳に映る自分が恐ろしい程に汗だくで、みっともないことに気がつく。
「……だいじょぶ、可愛く見えるよぉー?」
彦根はいつもに増してさらにゆっくり、ただの一言を思いやるように言った。
「そうですか」
また、汗が頬を伝って襟に落ちる。
血液が逆流して、脳みそが再生された。
伊庭はいつにも増して早く矢継ぎ早にして言葉を紡ぐ。
「てか、俺らそんなにヤワじゃないんで」
「あーね」
ふふ、と優しく彦根は笑った。
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