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オルレアンのうわさ
妻の何気ない一言からその話題は始まった。
「引っ越したいってこと? なんで? このマンション気に入ったっていってたじゃない」
ダイニングテーブルで遅い夕食をとっていた私にとって、妻の持ち出した話題は寝耳に水だった。内見をかさねて家族全員が満足したはずだ。先月引っ越してきたばかりのマンションを引っ越すなんて冗談じゃなかった。
「別に引っ越したいってほどじゃないのよ。ただご近所の人が」
いつもは竹を割ったような性格の妻が珍しく口ごもる。
「もしかして、同じマンションの人に嫌がらせされてるとか?」
「そうじゃないの。みんなすごくいい人」
「じゃあ大家さんが?」
「大家さんも親切なひとよ。困ったことがあったらなんでも相談してね、って今朝も」
結局その日は埒が明かず、話は何も進まなかった。具体的にどこが、というのは説明できないけど、どこかおかしいというのが妻の言い分らしい。
娘のアユが大きくなってきたので、私達夫婦は近所のリサーチを始め、娘が進学するであろう小学校や中学の情報を仕入れ、最善と思われる地域の賃貸マンションの3階に入ることに決めた。静かな住宅街の中にあって、近くには公園も保育園もきれいな図書館もある。ネットの口コミによれば治安のいい土地柄だそうだし、マンション自体も築浅で多少家賃は張るが、多少がんばれば払えない額ではない。妻はピカピカのシステムキッチンと収納の多さ、私は広いバルコニーと、そこから差し込む日当たりの良さに惹かれた。アユに最適の環境で子育てをし、彼女にできるかぎりの教育を施すため、多少無理をしてでもこの街に住もう。それが私達夫婦の出した結論だった。
私個人の話をするならば、引っ越しの前後で仕事に対するモチベーションは大きく向上した。育児があるので独身者や家庭をかえりみない同僚のように長時間は働けないが、朝はやく出社して集中して業務に取り組み、上司へのレスポンスは今まで以上に速く、かつ綿密に行った。実際毎日長時間労働している同僚よりも大きなプロジェクトを任され、着実に成果を挙げつつある。もっともっと出世して、家族のために給料を上げたい。何もかもが上向き始めてきたその矢先だったのだ。
朝出勤するとき、同じ階の隣の部屋でなにかごとごとと音を立てているようだったのが少し気になった。はじめは模様替えをしているのか、と思ったがどうもそうではないらしい。夕方仕事から帰ると、たまたまその部屋に住む男性とエレベータで一緒になった。
「どうも、お隣の。もしうちが騒がしかったらすみません」
恐縮しながらその人が言うのでそこで初めて今朝のことを思い出した。
「ああ、そういえば」と私がつぶやくと、「ああ、やはりお騒がせしてましたか」と頭を下げるので、いえいえ、と私は否定した。
「家の中では全然聞こえませんでしたので、そんなに謝らないでください。ただ、今朝廊下に出たときにものを動かしている音が聞こえただけで」
「そうでしたか、それならよかったです」
「模様替えですか?」
「いえ、退去の予定でして」
私は驚き、続きを待ったが、隣人はそれ以上続きを話そうとしなかった。会話はそこで一度終わった。私の知る限りこの感じの良い隣人は私と同年代くらいで、奥さんと二人の子供がいる。私が今の住まいに引っ越したときにはすでにマンションに入居していた。引っ越しのときに挨拶をしたし、私が家を出たり帰ってきたりするタイミングでたまに顔を合わせるので挨拶や軽い世間話をするくらいの仲だ。
エレベータが動き始めるまでの間、踏み込んでいいものか少し迷ったが、妻の顔を思い出して意を決して聞いてみた。
「あの、もし差し支えなければ、退去されるのはなにか理由があるのですか? もしかして転勤とか」
すると隣人はすこし驚いたような表情を浮かべ、それから話したものか迷っているような素振りを見せた。
「理由というほどのものはないんです。私も子供だましの噂だと思うのですが」
「噂?」
隣人は私の反応を見て、思い直したようだった。
「いや、たいしたことではないんです。私自身信じていませんし、でもうちには子供がいますから」
「なんの噂ですか?」
私が彼に訪ねたとき、エレベータの扉が開いた。隣人はあきらかにほっとしたような表情を浮かべ、「いえ、まぁちょっと手狭になってきたな、というのもあったんです。うちは子供が二人で、大きくなって来てますから。多少通勤時間が増えても遠方の場所に引っ越そうと。それでは」
早口でとってつけたような説明をすると、隣人は足早にエレベータを降りて自分の部屋に引っ込んだ。なにかを隠しているように見えた。噂とは何なのか、何をそんなに怯えているのか。聞くタイミングを逃してしまった。
マンションでは引っ越しが相次いだ。家を出るときに引っ越しセンターのトラックが停まっているのをよく見かけた。ユニフォームを着た従業員が段ボールや大型家具を積み込んでいく。家具をトラックに積み込むのだから、これが入居ではなく退去なのは明らかだろう。住人が一組、二組と増えていくにつれ、妻の不安は増しているようだった。
「今度は下の階のご家族が退去されたみたい。2階はもう完全に誰も住んでないわ」
「でも、どうして? べつになにかこのマンションに問題があるわけじゃないだろう?」
「あんまり退去者が続くから引っ越ししてる人から聞いてみたの。どうしてここを出るんですか、って」
「そうしたら、なんて?」
「それがはっきりしないの。なにか事件があったらしいんだけどそれが薄気味悪いから出ていくって」
「事件? もしかして殺人とか? でもパトカーとかは特に見てないけど」
「子供のためを思うなら出たほうがいいって」
「誰が?」
きっと下の階の住人だろう。妻は私の問には答えず、ただ黙って首をふるだけだった。食事の時間もこの話題ばかりで、私達はすっかり疲弊していた。
追い打ちをかけるように職場でもトラブルがあった。その日の仕事を終えて帰るとき、仲の良かった同僚からちょっとした嫌味を言われ、口論になった。同僚によれば、なんでも私が「残業が多いわりには成果が出ていない」と、その同僚の評価を上長に進言したということだった。おかげでプロジェクトからは外され、大いに恨みを持っているらしい。そんなつもりで上長に言ったつもりはなかったのだが、私は絶句し、何も言い返せないまま職場をあとにした。
それが正しい結論だったのか今でもわからない。私達は引っ越したばかりのその物件を出ることに決めた。今でもその物件の何がおかしかったのか説明することはできない。妻はノイローゼのようになり、アユは毎日元気がなく、私自身も朝起きるのが辛く、仕事に対する意欲が減っていた。引っ越し作業をしていると、何人かの住人にどうして出ていくのか、と聞かれた。しかし、私としてもはっきりとした理由を答えることができない。それで質問した人は釈然としない表情をうかべながら去っていった。
別の場所に引っ越してから憑き物が落ちたように生活は好転した。妻もアユも元気になったし、私も仕事にそれほど気負いがなくなった。あのときの同僚とは未だにすこし気まずいが、それもいずれは時が解決してくれるだろう。
了
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