朱色の蔵

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朱色の蔵

 今から20年ほど前、当時大学生だったAさんは、夏季休暇を利用して引越しの短期バイトを行っていた。  当時の夏は今ほど苛烈な暑さでは無かったとはいえ、夏場の引越しが重労働であることには変わりない。大変な仕事だったが、お金が必要だったAさんは歯を食いしばって働いていた。  ある日、※※県の某所で大口の仕事が入った。  仕事内容は、蔵の整理と移動。その場所は、※※建設という、地元の人間ならば知らぬ者はない大手建設会社の一族が住んでいる屋敷だった。  バイト先の社員からは『チビるほどデカい』と聞いていたが、いざ実際現場に到着すると、そこには想像以上の光景が広がっていた。  学校が丸ごと収まるほどの広大な敷地の中心に、時代劇に出て来る武家屋敷のような巨大な日本家屋があった。庭は寺院のように白い砂利が敷き詰められ、よく磨かれた石灯籠と、綺麗に刈り込まれた松の木が点在している。恐らく、人を使って恒常的に整備しているのだろう。砂利石に乱れはなく、地面には落ち葉一つ落ちていなかった。  (ここまで来ると、羨ましいというより何だか畏れ多いと感じてしまうな・・・)  Aさんは居心地の悪さを感じつつ、案内役である使用人の後に続いた。  彼らが案内されたのは、何棟もの蔵が立ち並ぶ裏庭のような場所だった。  そこで班分けが行われ、Aさんは大学の同期であるBという男と共に梱包作業を行うことになった。  埃とカビの匂いが充満する蒸し暑い蔵の中で、Aさんと Bは汗を拭いながら指定された作業をこなしていた。  その作業がひと段落した頃だ。Aさんは、Bにトントンと肩を叩かれた。  「あそこ、気にならね?」  Bは親指で、背後にある蔵の一つを指差した。彼が指し示しているのは、雇い主から絶対に中に入るなと強く厳命された蔵だった。  その蔵は、他のものとは明らかに違っていた。  まず、他と比べてやけに古い。他の蔵が綺麗に手入れされ、扉や瓦に豪勢な装飾が施されているのに対し、その蔵は装飾のようなものは一切なく、そこら中ひび割れだらけで今にも崩れ落ちそうだった。  そして何故か、その蔵の壁だけが赤かった。  赤色、というより朱色に近い色だった。赤い壁が年月を経て風化した結果、色褪せて薄い朱色になった━━蔵の壁は、そのような色をしていた。他の蔵はすべて薄いクリーム色であるにも関わらず、その蔵だけは何故か異様な朱色をしていたのだ。  正直、Aさんはこんな薄気味悪い蔵になど近寄りたくも無かった。しかし、Bはそうではなかったらしく、彼は好奇心に目を輝かせていた。  Aさんはため息混じりに答えた。  「確かに気にはなるけどさ・・・あそこには入るなって言われてるだろ? 怒られるぞ」  「近づくだけなら大丈夫だって。そんで中をちょっと覗いてさ、何があるか見てやろうぜ」  そう言って、Bはヘラヘラと笑った。その嫌らしい笑みを見て、Aさんは心底うんざりした。  Bとは同じ大学の同期であるというだけで、友達ではない。向こうがどう思っているかは知らないが、Aさんの方はそういう認識だった。  合わないのだ、色々と。  正直、バイト先で初めて会った時からちょっと嫌なものを感じていた。その感覚が決定的になったのは、ある女性宅での引越しのこと。  その時、Bは引越し屋の社員と依頼主が席を外している隙に、  「見ろよ、お宝を見つけたぜ」  と言って、その女性の下着を自慢げに広げて見せてきたのだ。  Aさんは顔面蒼白になった。  小声で叱りつけ、すぐに元あった場所に戻させたので大事にはならなかったが、一歩間違えれば警察沙汰になるところだった。  それ以降、Aさんの中でBという男の評価は、信用の置けない奴ということで定着した。  こんな奴、本来ならすぐにでも縁を切りたい。しかし、バイト先の同僚なのでそういうわけにもいかず・・・結局、Aさんは一夏の辛抱と自分に言い聞かせ、我慢することにした。  適当に相手をして、適当に話を合わせよう。  Aさんは、Bに対してそのように接していたのだが━━  「なあ、いいじゃんか。覗いてみようぜ?」  その日、Bはやけにしつこかった。普段なら、Aさんがやんわり拒否すればすぐに引くのに、この日は中々引かなかった。幼稚園児のようにAさんの腕にまとわりつき、まるで諦めようとしなかったのだ。  (うるせぇなぁ・・・)  怒鳴りつけてやろうかと思ったが、暑さのせいでそんな気も起きない。頭がぼうっとしているせいもあってか、半ば投げやりな気持ちになっていたAさんは、結局折れるような形でBに付き合う羽目になった。    外に出ると、刺すような日差しが肌を焼いてくる。しかし、最早サウナと化している蔵の中に比べれば天国のようなものだった。  (コイツ、本当は外に出たかっただけなのかもしれないな)  辺りをキョロキョロと見回し、いかにも挙動不審な様子で前を行くBの背中を見つめながら、Aさんはそんなことを考えていた。  蔵の前に立つ。  途端、妙な寒気を感じた。  頭のてっぺんからつま先へ、小さな氷が滑り落ちて行くような感覚。Aさんに霊感のようなものは皆無だが、ここはマズイという本能の警鐘を聞いた気がした。  「・・・戻ろうぜ。ここ、何かヘンだ」  AさんはBの腕を掴んで言ったが、彼は相変わらずヘラヘラしたままだった。  「大丈夫。大丈夫だって」  何が大丈夫なのかまるで分からない。引き返そうとするAさんを無視し、Bはあろうことか蔵の扉に手をかけた。  よせ、と止める暇も無かった。  Bは取手を掴み、扉を開けようとした。  が、開かない。  扉は引く度にガチャガチャという音がするだけで、一向に開く気配がない。  鍵がかかっている。  当たり前といえば当たり前。しかし、Aさんはその至極当然の事実に、迷い道からようやく抜け出たような大袈裟な安堵を覚えた。  一方、Bは不満そうな顔をしている。Aさんがその肩に手を置き、いい加減にしろと言いかけた時だった。  ガキンッ、という一際大きな金属音と共に、何かが床に落ちる音がした。  「お、開いた」  すると、今までびくともしなかった蔵の扉が、突然開いた。  僅かに覗いた隙間から、大きな南京錠のようなものが見える。先程の音は、恐らくコレが破損した音だったのだろう。  Aさんは真っ青になった。  器物破損もそうだが、Aさんをそれ以上に青くさせたのは、南京錠に貼られている『モノ』だった。    古いお札が、何枚も重なり合うようにして貼り付けられていたのだ。  「何コレ。ヤバ」  言葉を失っているAさんに対し、Bは何の恐怖も感じていないようだった。  恐らく、お札で雁字搦めにされた南京錠が『内側から』かかっているという異常さにも気付いていないのだろう。ガクガクと震えているAさんを尻目に、Bは蔵の扉を開けた。  瞬間、中から風が吹いてきた。  その風に混じり、古い砂糖を煮詰めたような匂いがした。後年、Aさんが所帯を持った際に気付いたことだが、それは子供の体臭に酷似していた。  蔵の中には何も無かった。  窓さえ無い。ただ、その床にはやけに綺麗な畳が敷かれていた。  ミシリ、という音がした。  Aさんは見えない圧力のようなものを感じた。  空気にしては重く、形のあるものにしては軽すぎる。そんな、何とも形容し難い『モノ』が、Aさんの側をすり抜けていった。  そして、ひどく遠いようで、とても近いような・・・そんな曖昧な距離で、無数の子供がくすくすと笑っている声がした。その笑い声に混じり、  ありがとう、という幼い声がした。  「貴様ら、何をやっている!!」  その怒声に、Aさんは現実に引き戻される。弾かれたように振り返ると、そこには鬼のような形相をした※※家の老人がいた。          ※  AさんとBは即時帰宅の処分が下され、数日後に正式にバイト先から解雇を通告された。それに加えて、  「お相手の方は法的な処置を取るとのことだから、覚悟するように」  バイト先の偉い人から、そう宣告された。  Aさんは頭を抱えた。  一応、主犯はBで、自分は止めようとしたのだというAさん側の主張は通ったものの、最終的にBに同行してしまったのが致命的だった。Aさんは共犯と見なされ、Bのように警察の取り調べを受けることは免れたものの、民事で訴えられるのは避けられない流れになってしまった。  ※※家の人間の怒りは尋常ではなく、蔵の扉を破損させたのが見つかった時も、  「警察を呼ぶ前に、まず先にコイツらを殺させろ!!」  そう言って、老人は物凄い剣幕で喚き散らしていた。実際、警察が到着するまで何度か暴行を受け、Aさんは本当に殺させれるのではないかと思ったほどだ。AさんとBが死なずに済んだのは、引越し屋の社員の中に優しい人がいて、その人が必死に※※家の老人を抑えてくれたからに過ぎない。あの人がいなかったら、自分とBはあの屋敷で死んでいただろう。そう思えるほどに、老人の剣幕は尋常では無かった。  「よくも、よくも※※※をっ!! お前らの人生を滅茶苦茶にしててやる! 滅茶苦茶にしてやるからな!!」  ※※※の部分は、何と言っているのか分からなかった。年齢の割にひどく幼稚な啖呵だったが、目に宿った殺気は本物だった。  この男は、完全な本気で、自分の人生を壊しに来るつもりだ。  そう確信させる凄みがあった。  Aさんはその時の光景を思い出し、何度目になるか分からないため息を吐いた。  「・・・オレ、これからどうなるんだろうなぁ・・・」  自分のこれからを想像し、Aさんは暗澹たる気持ちで呟いた。  しかし、それ以降、Aさんの人生に※※家が関わってくることはなかった。  蔵の件があった数日後に、※※家の人間は全員惨殺されたからである。            ※  事件当日、※※家には使用人を含め、7人の人間がいた。その全員が、『恐らく』殺されたと思われる。  何故、そのような曖昧な言い方がなされているのかというと、犠牲になった7人のうち、誰1人として死体が見つかっていないからである。  死体が見つかっていないのなら、それは失踪事件として見なされるべきだが、警察はこれを殺人事件であると断定した。  何故なら現場は血の海で、人間の肉の欠片が屋敷のそこら中にこびりついていたからである。  Aさんも、容疑者の1人として取り調べを受けた。  しかし、事件当日の夜、Aさんは夜勤のバイトをしていたこと、そして何より、どう考えてもただの大学生が行える犯行ではないということで、早々にAさんは容疑者の輪から外された。  一方、Bはというと━━実は、あれからBがどうなったかについて、Aさんは何も知らなかった。連絡先は交換してあるものの、事件後、Bから連絡が来ることは一度もなかったのだ。  彼のその後について知ったのは、Aさんが四回生になった時だった。  就活を通じて、Aさんは1人の同期と仲良くなった。  その男との雑談中、何かの流れで『大学を辞めた同期』の話になった。  その話を聞いていく内、男が話す同期のことが、BであることにAさんは気付いた。  相当の偶然であるが、男はBと同じ高校の出身だった。  男の話によると、Bは蔵の事件からしばらくして、大学を辞めたらしい。  事件のせいで辞めた訳ではない。※※家の人間が全員死亡した結果、その件は有耶無耶になっている。  Bが大学を辞めたのは、とてつもない大金を手に入れたかららしい。  その大金が『何』によるものなのか、そこまでは男も知らなかった。  しかし、相当な額を手に入れたのは間違いない。  Bは実家に戻ると、近所にあった使われなくなった古い団地を丸ごと買い取り、そこを更地にして、豪邸を建てているらしい。  「羨ましいよなぁ。オレもどっかから大金が転がり込んでくればいいのに」  男が言った。Aさんはそうだなと相槌を打ち、目を逸らした。  不思議と、羨ましいという気持ちがまるで湧かなかった。  代わりに、何か途方もなくイヤな予感が脳裏を掠めた気がして、Aさんはその考えを打ち消すべく、頭を振った。  それ以降、Aさんは努めてBのことを考えないようにしたのだが━━  大学卒業を間近に控えた頃、AさんはBの故郷を訪れていた。  ━━━どうしても気になる。  その思いを捨てることができなかったのだ。  友達ではない、むしろ嫌いな奴であるにも関わらず、何かの拍子にBのことを考えてしまう。それは心配とも、好奇心とも、嫉妬とも違う。何か説明の出来ない感情が、Bのことを知れ、とせき立てているのだ。  Aさんは卒業式までの短い休みを利用し、Bの故郷を訪れた。  場所は、Bの同級生だった男から聞いている。地図を頼りに、その場所を訪れると━━  そこに、赤い大きな箱があった。  無論、何かのオブジェクトではない。巨大なコンクリートの壁に四方を覆われた、研究所のような造りの大邸宅だった。  Aさんは持っていた地図を落とした。  脳裏に、※※家の、あの朱色の蔵が蘇る。  もしや、あの蔵は元々、こんな色をしていたのではあるまいか? この、まるで鮮血のような、真っ赤な血の色を━━  その光景を想像しそうになり、Aさんは慌てて頭を振った。  と、その時、カランっという軽い音が聞こえた。  音の方に目をやると、そこに1人の子供がいた。  やけに古めかしい格好をしている。黒い振袖に赤い帯。髪はおかっぱで、唇に薄く紅を塗っている。恐らく女の子であろうが、妙に中性的な雰囲気がある。  女の子は、手に赤い小箱を持っていた。  ぼうっと突っ立っているAさんに向け、女の子はゆっくり歩いてくる。歩く度にカランカランという音がする。女の子は、今時珍しい雪駄を履いていた。  女の子が、Aさんの横を通り過ぎる。  その際、覚えのある匂いがした。  古い砂糖を煮詰めたような匂い。あの蔵を、※※家の朱色の蔵の扉を開けた時に嗅いだ、あの匂いだった。  ハッとして振り返ると、そこにはもう女の子の姿はなかった。  首筋に、髪が触れたようなくすぐったさを感じた。  「ありがとう」  それは子供の声ではなく、艶やかな情婦を連想させる怪しい声色だった。  それなのに、この声はあの時聞いた『何か』と同じ声なのだと、本能で察した。  Aさんは振り向けない。  振り向いたところで、そこには何もいないことなど分かっている。  それでも、Aさんは振り向けなかった。  どこか遠くで、大勢の子供がくすくすと笑っている声がした。           ※  それ以降、AさんがBの家を訪れることはなかった。  彼が今何をして、『何』と共にいるのか?   それを知るつもりは、Aさんにはない。                    <了>    
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