暑中見舞いはもう書かない

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 “1・0・1・9”――と。  4つのダイヤルに刻まれた0から9の数字を合わせる。開錠の番号は元カレの誕生日。7年前に設定したきり、変える切っ掛けが見つからない。指先でカチリと小さな符合を感じて、銀の扉を開ける。メールボックスの底にへばり付くようにして、それは。  僕が書いた受取人の住所の上に「転送」の赤いスタンプが押され、その文字を半分覆い隠して薄いピンクの紙が貼り付けられている。――“受取拒否”。  やや丸みを帯びた見慣れない筆跡。ボールペン書きの黒い文字の筆圧は高く、たかが5cm四方ほどの切片に、これでもかと感情を叩きつけたかのようだ。  そうか――そうなんだ。  たった1枚入っていた郵便物を片手に掴んで、メールボックスの扉を閉めた。いつものルーティンでダイヤルの数字をバラバラに回す。そのまま、集合ポストからエントランスホールの奥に向かうと、待機中だったエレベーターに乗って5階のボタンを押した。  シンク脇に置いたグラスの音で我に返った。右手が握るグラスの内外が濡れている。鼻の奥が少しカルキ臭い。まさか、水道水を飲んだのか? 普段の僕なら冷蔵庫のミネラルウォーターしか口にしないのに。  ダイニングの椅子を引いて腰を下ろすと、背もたれに身体を預ける。汗ばんだシャツの感触が気持ち悪いけれど、着替えに立ち上がる気力が出ない。なんだよ……まだ、ショックを受けるのか。  エレベーターを下りてから、廊下を通って、玄関のカギを開けて、靴を脱いで、グラスで水道水を一杯飲んだはずなのに、今しがた行ったはずの記憶がごっそり抜けている。毎日繰り返していることとはいえ、ほんの数分前の自分の行動を覚えていないなんて、な。  全身が脱力しているのに、頭の芯が冷えて思考だけが止まらない。目の前の天板から浮き出たように違和感を放つ、青い海のポストカードのせいだ。世界のどこかの夏景色の中で「暑中お見舞い申し上げます」という挨拶文が澄ましている。  これは、半月前に僕が出したポストカードだ。僕が選んで、僕が自筆でしたためた、年に一度の安否確認。これが届いている内は、僕を忘れずにいてくれる。彼の心の片隅に、まだ引っ掛かっていられる。そういう未練と安心を秘めた、一方的な押しつけだ。だけど。 「今度は、忘れなくちゃ」  唇が震える。……あれから7年だ。学生時代の先輩後輩を引きずったままの淡い恋。優しくて狡い彼は、いつか家庭を持つ、自分の子どもが欲しいと言いながら、僕を恋人にしてズルズル暮らした。僕が彼の望みを叶えることは決してないと分かっているのに。だけど、僕も臆病で狡かったから、その関係をダラダラ続けた。彼が卒業して就職して、2年後に僕が就職しても、それぞれの会社や周囲の人達にバレないように気をつけながら同棲生活を送った。ずっと、甘い恋人気分に溺れていた。溺れていたのは、最初から僕の方だけだったのに。
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