暑中見舞いはもう書かない

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「おーい、荷造り終わったのか?」  今の部屋の更新時期が近づいたので、思い切って引き払うことを決めた。新しい住まいは、部屋が一室増えて、ユニットバスじゃなくなるし、浴槽も広くなる。これまでのように仕事から帰って、1人で寝るだけの寂しい部屋じゃない。 「ごめん、あとちょっと!」 「手伝う? そろそろトラックが来る時間だぞ」  開けっ放しのドアの陰から、気遣うように部屋の中を覗き込んでいる。オレンジ色のエプロン姿が可愛い。いつもは上品で落ち着いたブラウン系のスーツを隙なく着こなしていて、髪もピシッと整えている。出来る上司の見本みたいな男性(ひと)なのに。 「大丈夫。机の中だけだから」 「じゃあ、玄関のゴミ袋出してくるよ」 「うん、ありがとう」  彼は直属の課長だ。昨年、グループ会社から異動してきた。僕より10も年上で、20代の頃に一度女性と結婚して、30代の始めに離婚した過去がある。新規プロジェクトで彼のチームに加わったことが切っ掛けで、一緒に晩ご飯を食べる機会が増えた。プロジェクトは成功したけれど、その直後、彼がインフルエンザで寝込んでしまった。僕は、彼の部屋に泊まり込んで看病し――色々あって、お付き合いが始まった。  机の引き出しをさらって、書類やノートなんかをパラパラめくりながら作業を進めていく。要るものは段ボール箱に。要らないものはゴミ袋に。最後に、一番下の引き出しに入れていた古い資料のノートを取り出す。軽く中身を確認してから段ボール箱に収めていると、ハラリと青い海が舞い落ちた。 「……こんなところに」  少しだけ若い文字で「暑中お見舞い申し上げます」――それだけが手書きされていて。宛名面には、色褪せたピンクの切片が黄ばんだセロハンテープで貼り付けられている。筆圧の高い文字はまだ読めるけれど、ボールペンのインクが色抜けしていて、黒からセピア色に変わっていた。  ――もう要らないよ。  思わず笑みが溢れた。迷いは微塵もない。ゴミ袋の中に放り込んで、持ち手を縛る。段ボール箱にガムテープを貼っていたら、玄関のドアが開閉した音が聞こえた。僕は、彼を出迎えに立ち上がる。  この部屋を出たら、新しい生活が始まる。食器もカーペットもカーテンも、この部屋で使った物はリサイクルショップで処分した。彼は、僕のために真っさらな新しい物を買い揃えようと言ってくれたから、一緒に選んで一緒に決めた。とても優しくて誠実な……そういう相手と巡り会えたんだ。 「おーい、トラックが着いたぞ!」 「ありがとう。 荷造り、ちょうど終わったよ!」  もう二度と、「暑中見舞い」は書かない。 【了】
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