あんたがぼけたりしなければ

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あんたがぼけたりしなければ 峯 良一 「私」が日ごろ資料として購読している、大手新聞の社会面にでたそのベタ記事に目をとめたのは、冬も近いある日、晩秋の陽光をアパートの窓側で感じながら、出がらしの殻茶をすすりつつ朝刊を読み始めていた時のことだった。  「(十一月三日)十一月1日、〇〇県△△市で親子心中事件と思われる事件が発生した。なくなったのは、この家に住む職業・大学非常勤講師の坂田元春容疑者(五十五歳)。調べによると坂田容疑者は、同居していた母親の坂田むめ(八十五歳)の首を絞めて殺害しようとしたのち、自らは庭の松の木に母親の汚物で汚れたシーツを巻き付け、首つり自殺を図ったと思われる。なお母親のむめさんは、首を絞められたあと仮死状態に陥ったものの、隣家の通報で現場に到着した警察官の救命措置で幸い一命をとりとめた。警察は被疑者死亡のまま、検察に書類送検をする予定。  近所の住民の話では、坂田容疑者は大学院終了後二十五年になるものの、いくつかの大学や専門学校などで非常勤講師などを務め、研究を続けていたものの、なかなか収入が増えず、数年前から同居していた母親が認知症のために介護を続けていたという。警察は、坂田容疑者が生活苦と介護で前途を悲観したあまり、親子で無理心中を図ったものとして、動機などを引き続き調べている(喜多川光一)」  大学の非常勤講師・・・。はて、准教授や教授とはどう違うのだろう。そしてなにより、なんで母親を殺害したのだろう。彼の日常はどうだったのだろう。  検索サイト「第6の目」にはこうあった。  「大学院などを修了し、いわゆる非正規の形態で大学などに講義を受け持つ者を指す。かつては、専任教員になる前の「受け皿」としてオーバードクターなどが一定期間「腰掛」として就業する形が多かったが、現在は大学の専任教員そのものが採用を減らしているため、10年ないしはそれ以上の期間就労する者が激増している。しかし、形態そのものは非正規労働者のため、1年契約や半年契約が圧倒的に多く、たえず首切りやコマ数の削減などの不安におびえるものが多く、社会問題になるケースも多い。近年は、労働組合などの組織化や取り組みで雇用継続や賃上げなども進展しているが、恣意的な首切りや一方的な労働条件切り下げなどの憂き目にあう講師も少なくない。また、法律の抜け穴をかいくぐる違法な就業規則を一方的に制定する場合も珍しくはないという」  「私」はまず、関連リンクに記載されていた、大学非常勤講師でつくる労働組合のサイトから連絡を取り、労組の役員から実態を聞き出そうとした。幸い、携帯で連絡が取れたい委員長という女性にSNS通話で話を聞くアポが取れた。 無料検索サイトで写真や動画はよく出てくるが、話しぶりは極めて落ち着いた感じである。哲学と経済学で、博士号を二つ持つ。 (〇〇地方非正規大学教職員ユニオン・佐藤ひみこさんの話) 「大学の非常勤講師がどのように生まれたかですか? 存在そのものは、戦前からだったと思いますよ。 当時は、旧制帝国大学で教鞭をとっていた先生方が、同じくうまれたばかりの私立大学なんかに出講することなんかめずらしくなかったからね。教員不足を補うために、そうした大学から先生方を「非常勤講師」という形で呼び、お車代などに上乗せする形で給与を支払っていたみたいですね。」 「まだその頃は、大学の先生方がお互いに「融通」しあうという意味合いだったんでしょうね。そしてそれは、戦後の一時期も続いていたのでしょうね」 「そうだと思います。そして、戦後の相当長い時期まで―新制大学の制度が発足し、また高度経済成長の進学熱で大学への進学率も高騰し、『駅弁大学』なんて揶揄されるほど、全国に国立大学が立ち並ぶほど、大学ができたじゃありませんか。そして、あちこちに教員養成のために大学院ができましたし、また、すべてを専任で授業を賄う状態ではありませんでしたしね。コストの安い労働力、また大学院を出たばかりの若い研究者にとっては、専任になる前の『武者修行』の場にもなりましたから。そこで数年間耐えれば、あとは専任への道が待っている、そんな状況が数十年続いてきたわけですよ」 「とはいっても、報酬はあまりにも安すぎて、学習塾や家庭教師、予備校の先生をやる人も多かったです。いまだに、一時間九十分の講義で、一か月2万円台なんて報酬は珍しくありませんから。」 「事前の準備、レジュメの作成などに加えて、昨年度からの「感染症の大流行では、まったくの素人が動画を作成して授業のかわりにしなければいけなくなりましたからね。学生からは苦情も来るし、話し方が下手だの、棒読みだの。学生アンケートで評価の低い教員は「大学側の介入を」なんて書いてくる学生もいますしね。当人から一度、そんな苦情を聞いたこともあります。それで中途退職したり・・・」 「それでも、男性の場合はまだましですよ。」佐藤は話をつづけた 「私みたいな女性の場合、指導教員はいわゆる専任教員の就職あっせんにはあまり乗り気ではありませんでしたからね。そりゃ、若いころから男性院生より何倍も、何十倍も努力して業績を上げ続けて専任教員に採用された女性も知っていますよ。でもたいていの場合、文系・理系を問わず専任のポストは男性に優遇されて採用されていましたね。『女の経済問題は、結婚で解決しろ』なんて暗黙の了解?みたいのがどこの大学院でもありましたし。」 佐藤は自嘲気味に笑みを浮かべていたようだった。 「自分の場合、見合い結婚の相手が大学の専任でしたし、その点では恵まれていたのかもしれません。家事や育児なんかも私よりよくできた面もありましたし(笑い)。それでも、妊娠出産の時期を「調整」しないと、次年度は雇ってもらえないこともありましたからね。」 「出産調整ですか?それはさすがにすさまじい話ですね」 「例年、非常勤講師には年末か、それより少し前に次年度の出講について打診が来るんですよ。そこにはやはり「できません」とはかけないでしょ?組合員の中には、突然打ち切られたり、なんの保証もなく放り出されたり…。うちの組合ができて、社会に相当認知されてからはさすがにそうした『前近代的な』人事の体質が一定程度正される前は、結婚や妊娠出産だって注意しないといけなかったわけです。まさに「計画出産」です。冬の期末試験のころに出産が行えるように、妊娠だって・・・。もっとも、自分の場合は育児も夫が頑張ってくれていたので、その点はかなり助かりはしましたが」 職場ではたらく女性が、妊娠すると様々な困難に会う話は聞いていたが、世間一般ではようやく男性育児休業の取得率を含めて社会問題として認知され、一定の配慮がされるようにはなったはずだ。しかし、SF映画のディストピアじゃあるまいし、計画的な妊娠と出産とは・・・。 佐藤はつづけた。 「学校の先生方は、正規の教員はよいとして、私たちのような存在は無視ですからね。少子化少子化と問題にされるけど、そもそも正規の労働者を「多様な働き方」ができると美辞麗句を並べ立てて、減らしてきたのは誰なんですか?教育現場で働く人たちの差別・格差を放置してきたのは誰なんですか?安心して子供を産み、育てる環境を整備してこなかったのは誰なんですか?私たちは、非正規ということで、保育所に預ける時でさえ、正規の労働者ならプラスに考慮される事情が、逆にマイナス点として評価されてきたのですよ。一昔前には、子供を預けたくても、自治体によっては「就労証明書」を大学から出してもらえないと、配慮すらしてもらえませんでしたし。」 「保育園落ちた、日本死ね!」なんて書かれたブログが一時期話題になり、国会でも取り上げられましたが、私たちにはどの程度プラスになったのやら。 非常勤講師の中には、いまだに年収が二百万程度なんてざらですしね。社会保険もなければ、退職金もない。ましてこの三年間のコロナの下で、PCはもちろんタブレットの貸し出しだってやっていない。でどうやって、オンライン授業に必要な準備をしろというのですかね。世間は賃上げ賃上げといっているけれど、どこの話なんでしょうかね。先進国でも最悪の賃金だというのに」 「あと、これは彼の場合とても重要かと思うのですが…。」 佐藤は話をつづけた。 「かつては、大学や高等学校などの専任教員に就職すれば、奨学金の返済が免除された時期があったのですよ。それが、二〇〇五年に廃止されて、彼も四百万円近い奨学金を「借金」という形で抱え込むことになりましたし。ずいぶん、返還猶予制度なんかを使って仕事を増やす努力をしたり、いわゆる『日雇い派遣アルバイト』なんかもやっていたみたいですね。」 日本育英会の奨学金のことだろうか。 「はい、そうです。いまは全国学生支援協会と称していますが。そもそも、奨学金を取り扱う事業ではなくなりました」 「だいたい、先進国では」佐藤は続けた。 「奨学金は給付制度が当たり前じゃないですか。ところが日本の場合、卒業したら返還を求められる。それでも、かつては政府の指定した研究・教育機関とりわけ小中学校や大学の専任教員に採用されれば免除されていました。ところが、その制度が廃止され、しかも延滞すれば年10%の延滞金がつくなんてべらぼうなことになりましたからね。さらに、利息付きの奨学金制度が今は増えていますし。」 「まるで悪質なサラ金、闇金業みたいじゃないですか?」 「まるで、でなくて、そのもの、いや、それより悪質かもしれませんよ。かつて昭和の時代、サラ金からやむなくお金を借りる、あるいは連帯保証人となって返済できない場合、弁護士さんが間に入って「自己破産」ができた。しかし、今の全国学生支援協会の制度では連帯保証人が親や親族なんかになっていると、それすらできない。請求が親兄弟姉妹親族にいくわけですから。ひどい場合、当人が長期間の入院を必要とする病気になっても、枕元に請求書が入院しているベッドの枕元まで届けられた、なんて冗談事じゃない事実がありますからね。 かつて、明治時代のころの製糸工場の女工さんの契約なんかも似たようなところがありましたよね。前金を渡せば、あとは経営者のやりたい放題。『約束が違う』といって逃げ出すとしても、親が前金を受け取っていれば、女工さんたちは逃げ出すことすら許されなかったし。なんせ違約金は6倍ですからね。返済のしようがないわけです。追い詰められた女工さんなんかが、川や湖に身を投げたなんて事件は当時、珍しくはなかったしね。もしかしたら、そうしたシステムに詳しい知恵者が、奨学金制度を変える時にそんなやり方を活用したのではないでしょうか」 大学非常勤講師のおかれているおおよその実情、大状況についてはなんとか把握できた。 佐藤への電話取材をいったん切り上げた「私」は、まず当人の日常、彼が暮らしていた日常のまちの周辺取材を進めてみることから始めようと考えた。 意外に「彼」の最寄りの役は、首都圏かつ東京23区から遠くないT県の中堅都市にあった。 都心から約30分。東京のベッドタウンとしてはそう新しくない人口三十万人の都市だ。ここ30~40年で遮断機が一か所しかなかったその駅も、いまや駅ビルとなって大勢の通勤・通学客を飲み込む5階建ての建物とテナントが入るにくらいになっている。「彼」は小学校5年生の時に、この町に家族と引っ越してきたという。その頃は駅前も、引き込み線がそのまま残る寂れたまちだったようだが。コンビニや金融機関などがいってい立ち並び、地方都市の駅前広場としてはそれなりに「体裁」は整えているようだ。少々、都市の駅前開発としては各種道路の整備などを含め、乱雑なところが気にはなったが。 「彼」の日常は、いったいどんなものだったのか。 駅前には洒落た自家製パンを販売する店が大通りにあるのが目についた。ここに立ち寄って、昼食用のパンを買うということはなかっただろうか。その女性店主の話―。 「あの人ですか?ええ、毎週水曜には必ずきてうちのパンを買ってくる人でしたね。チョコパンを必ず2個、あと自分で食べるのでしょうか、おかずパンを適当に選んで。あるとき「このチョコパンは、母が好きなんですよ」とか言っていましたよ。子供のころの味覚って、ほらいつまでも覚えているじゃないですか。彼のお母様も、彼が幼いころにきっとよくそうしたお店でねだられてチョコパンを買ってくれていたのではないでしょうか。新聞やテレビで事件のことを知りましたが、あんなに親孝行の人が、母親を殺したなんて信じられないです・・・きっと、周りの人には言えない何かがそこまで追い込んだのでしょうか。このへんも、高齢者の一人暮らしや、施設入所、息子さん、娘さんが同居して高齢の親御さんを介護している、なんて珍しくなくなりましたからね」 先に進んで大型車などが風を切って行きかう国道の左手に存在する大手ファッションセンターへ。国道とはいえ、若い人よりも高齢者がしばしば乳母車などを押して行きかう光景が見られる。彼はここにも母親の下着をしばしば買いにきていたらしい。  年配のパート店員の話。 「なんか、お母様がよく下着を汚すらしくて、「吸水性のある下着はありませんか?」と尋ねてきたんですよ。『年齢とか、下着のサイズはわかりますか?』と尋ねたら、「失礼ながら、店員さんと身長も体格もさして変わらないようなので・・・」と語尾を濁しながらおっしゃっていました。きっと、女性の下着を買うなんて、はじめての経験だったのではないでしょうか。お母様のほうも、きっと自分からは息子さんには言えなかったのではないでしょうか。そこは、やはり女性ですからね・・・」 そういえば、と「私」はふと取材の間に以前読んだある短歌が脳裏に浮かんだ。彼が利用していたソーシャルネットワーキングシステムに投降した、今から2年前に記された自作の和歌だ。 老親の汚れし下着を洗いつつ真冬の流水深夜に凍みいる  専任教員との格差が五倍、年収と同じ程度の奨学金の返済に追われる日々、そのうえ、日常の家事、認知症の親の介護、さらにはコロナ下での暮らしぶりはいかばかりだったのか。「私」は、もう少し彼の送る日常を詳しく知る必要があると感じた。 彼が週一回のペースで訪れていた、リラクゼーションのサロンで店長を務める40代のマッサージ師の話。  「もう五年位前ですかねえ。その頃は、わたくしの店も開業したばかりで・・・。今では高齢者や勤め帰りのサラリーマンやOLが利用することはまれでした。ほら、いわゆるリラクゼーションブームですしね。とりわけうちの店を利用しようとするお客さんはそう多くはありませんでしたね。」  「そんなときですよ。なんか顔色が悪くてつらそうな顔で、『ごめんください』と先生が入ってきたのは。大学の先生という風に名乗ってはいましたが、「僕はパートの先生なんだ」なんて、よく自嘲気味に自己紹介していましたよ」 「マッサージを通じて、『ああ、これはストレス性の症状だな』とよく感じましたよ。だって、ツボの反応を見ると、そうした箇所が良くでてきましたからね。こちらも長年こうしたお仕事をしていると、『あ、これはやはりストレス性の症状なんだな』とわかりますしね」  武井は、よく母親のマッサージも頼まれていたという。 「自分は以前、よく施設の高齢者にもリハビリテーションの仕事で往診もしていましたが、だいたい腰から足の筋肉が衰えることが多いですね。それでも、お母様の場合は米寿を迎えようとしている年なのに、わりと反応はよかったほうですよ。」  饒舌なしゃべり方に私は違和感を覚えつつも、武井はこうも続けた。 「ただ、先生はこうぼやいていましたね。『こんなふうに肉体が衰えてはいても、母の認知能力はさっきまで言っていたことすらも忘れてしまうんですよ。それなのに、最初の介護認定を七年前に判定してもらったときは、一番低い「要支援1」だったと。「あんなに認知力も、おちていて、なんで「要支援1」なんだ?とね。」  介護保険制度の問題点はいろいろ耳には入ってはいたが、その具体的なあらわれがこうした形で出てくることまでは「私」も初耳だった。 「ほら、認定のときは看護師やケアマネージャーなんかもくるのですが、当人が割とそうした場では頑張るというのか、なかなか認知能力が衰えたという風に見せたがらない、そうした人が多いのですよ。あと、運動能力、具体的には歩いたり、モノを動かしたり、それができると、どうしても介護度は一定あると判断されてしまうみたいで、それでそのギャップに苦労した、とぼやいていました」  介護認定の現場では様々な現実があると聞いていたが、彼の母もその一人だったのだろうか。 「同居して暮らしていると、いろいろな現実の日常が目の前で起こりますよね。たとえば、その日スーパーマーケットにいって自転車を平気で置き忘れる、仕事から帰宅したらカギがそのまま開けっ放し、買い物で自宅に買ってあったロールパンの袋をまた買ってくる、「何でこんなことが起こるの?」ということが、数か月間積み重なって「やはりこれは認知症ではないか?」とようやく家族も思い始める。ところが、当人は医療機関への受診を進めても行きたがらない。坂田先生もよく嘆いていましたよ。病院に行こうと進めると、「行かない!行きたくない」の繰り返しだって。老人によくみられる白内障で、目がよく見えなくなってきた時も、そのままで不安に思った先生が眼科医に連れて行ったら、「このままでは片目が失明しますね」と言われて仰天したくらいですから。結局、先生が何度も説得して、隣町の眼科医に手術をしてもらったとか。そのときも、いろいろあったとは聞いています」 「そのときもひと悶着あって、前日に用意した保険証やらなにやらが見当たらない。一時間近く探してようやく見つけてから、タクシーでなんとか予約時間に間に合ったといっていました。そんなことはめずらしくなかったのでしょうね。毎日「どうしてこんなことをするんだ!」と怒鳴ることは珍しくなかったと聞いています。そのたびに「知らない」「わからない」「覚えていない」と返される、先生にしてみれば、やってらんない、そういう思いだったともいますよ」  認知症の大きな問題は、やはり当人がその深刻さを自覚していない(自覚できる場合もあるのだろうが)、それでいて、周囲の家族に深刻な生活上の問題を引き起こしている、そこにあるのだろう。ようやく、素人の「私」にも輪郭が見え始めてきた。    それでは、当人を職員として担当していたケアマネージャーはどうだったのだろうか。  担当していた家庭で、親子の心中事件が起きるなどの問題が発生してしまった以上、当人もそれなりに相当ダメージが起きているに違いない。ここは話を聞く場合でも、相当な神経を使う必要があるだろう。  担当のケア前とは、電話を通じて短時間との約束で、何とか話を聞くことができた。 「いろいろ・・・たいへんだったみたいですね。特に、お父様が急性のがんでなくなられた10年前、ご兄弟といろいろあったようで・・・。」  担当の鈴木というケアマネージャーは、ぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。 「お父様のがんが発覚した際、ご本人がずいぶんそれでほかの兄弟姉妹から責め立てられたんですよ。日ごろお前がついていながら、なんでがんになったことがわからなかったんだ、お前が悪いといって・・・。それで結局、二年以上の闘病生活で亡くなったのですが、それもお前が悪いと…。そのうえ、お休みの日にまでわざわざお姉さまがやってきて、就寝中のご本人をたたき起こして「二階の掃除がなっていないじゃないの!」だの・・・。それも自分の都合の良いときにいきなりですからね。日ごろ仕事で多忙なご本人には耐えられなかったと思いますよ」 さらには、亡くなられてから初七日も過ぎないうちに、さっさと家と土地を売れ、とか・・・。」結局、遺産のことでもめにもめて、家庭裁判所の調停まで行ったと聞いています。そのときも、当人に「お前が家を立ち退け」だの・・・。あまりにも理不尽な要求に、調停員があぜんとしたということだそうです」  ケアマネは話をつづけた。 「それ以来、ご兄弟や親族とは疎遠になってしまったようですね。介護にも来ない、いや本人が来てほしくない、そうメールで心境をつづっていたくらいですから」 「今から考えると、わたしもそうした心境をもっと考えるべきだったと思います。遺産の相続は、平凡な家庭のほうにむしろ深刻な影響を及ぼす時代のようですから」  電話の向こうで、心なしか彼女は少し涙ぐんでいたように感じられた。 家庭でのがん患者の介護、それに対する無理解な周囲の親族、それと医療の甲斐なくなくなった父親と、その後の冷淡な兄弟姉妹の対応、遺産相続でのやりとり・・・。本人の心境もそうだが、周囲の近所で様子を見ていた人たちはどうだったのだろうか。  自宅前の家の主婦の話(名前は秘す)。 「ときどき、お母様と一緒にお買い物にいっていましたよ。スーパーの店員さんなんかも、「うらやましいですわ」と時折おっしゃっていたのを私も聞いています。  ただ、怒鳴り声みたいなのはときおり聞こえていましたね。「何で保険証が見つからないの?」とかね。  きっと、ご自身はせめてお買い物くらい、母親と一緒にいく習慣をつけておかないと、完全に認知能力が衰えるから、せめて一日に一回はこうしなければと思っていたのでしょうね。それでも、出かけるときとか、帰宅してからとか、いちいち鍵がないとか、財布がどこに行ったとか、感染対策のマスクをしていないとかで、しょっちゅう言い争っていたみたいですね。 お母様も、そのたびにあれこれ言い返していたみたいですが、それがまたご本人の癇に障ったのでしょうね。「あんたのせいで人生めちゃくちゃだよ。おれの人生どうしてくれるんだよ!」そんな怒声を聞いたことはありました」 「息子さんって、たしか大学の先生ですよね。普段は物静かな方なのに、親子だとどうしてもあれこれ本音がでてしまうのでしょうね。もっとも、これは認知症の親を抱えている家庭では、多かれ少なかれ共通している問題なのでしょうけれども・・・。」  一通りの取材を終えて外へ出ると、夕焼けはすでに西の地平線に落ち、日はとっぷり暮れていた。  大学教員という一見華やかで、実態は五倍以上の格差であえぐ非正規労働者としての貧困、奨学金という名の借金、遺産相続をめぐる兄弟姉妹との不仲(それ以前からあったがん患者の父親の自宅療養もそうだが)、それに母親の認知症の進行と感染症の蔓延という非常事態が彼の日常にとどめを刺したというのか。周囲の人間の話を聞いても、とりたてていい加減な生き方をせず、悪い評判もさほどなかったようなのだが・・・。  事件後母親は、病院での救急救命処置と入院後、体調はだいぶ回復し現在は近所の介護付き有料老人ホームにいるという。惨劇のあった自宅から、歩いて10分ほどだ。兄弟姉妹は、やはり引き取りを拒み、「お金くらいなら…」と3人で分担して払っているという。  「私」は面会所に向かった。彼女は病院の支給したパジャマを着て、車いすで待合室にポツンと誰かを待っているようだった。時刻は面会時間の午後8時をとっくに過ぎていた。  「元春は、まだ大学から帰ってこないのかしら・・・今日はずいぶんおそいのね・・・」  (了)
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